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古本夜話577 回教圏研究所編『概観回教圏』

イスラム問題をめぐる日本の状況は大東亜戦争の始まりとともに、さらに注視が高まり、研究も進められていったようで、昭和十七年には回教圏研究所編『概観回教圏』なる一冊が誠文堂新光社から刊行に至っている。
(『概観回教圏』)

その口絵写真には東京モスクだけでなく、神戸や名古屋のモスクの姿もあり、回教圏研究所所長大久保幸次が記すところの「序」は次のように始まっている。

 大東亜建設の世紀的使命の完遂に邁進しつつある日本は、ここに新しく回教圏の現実性を体験し、その重要性を切実に認識するに至つた。
 顧みれば、この東方世界の半身は、久しくわれらの間に閑却されてゐた。その結果、われらの回教圏に関する知識は、極めて貧困となり、概ね猟奇趣味の範囲を出でず、しかも、回教圏と歴史的に対立関係にある西欧より移入された偏見によつて歪曲されてゐた。しかるに、いまや世界史の転換を指導する日本の大いなる立場は、回教圏に関する正しく、広き知識の獲得を、不可欠なる国民的関心事にまで昂めた。けたし、本書の刊行も、さうした時代的希求に応ぜんがために外ならない。

要するに『概観回教圏』は「大東亜建設」に当たって、「東方世界の半身」である「われらの回教圏」を組み入れなければならないので、そのための「知識の獲得」をめざし、刊行されたことになる。同書は全十六章からなっているので、それらと執筆担当者名を示す。

 1 回教教理/ 鏡島寛之
 2 回教圏史/ おそらく鏡島寛之
 3 サラセン文化/ 佐々木秋夫と所員
 4 回教圏の人種及び言語/ 大久保幸次
 5 アラビア系諸国/ 野原四郎
 6 トルコ/ 大久保幸次
 7 バルカン諸国/ 大久保幸次
 8 ソヴイエト/ 宮坂好安
 9 イラン/ 蒲生禮一
 10 アフガニスタン 蒲生禮一
 11 インド/ 鈴木朝英
 12 インドネシア 鈴木朝英
 13 支那 竹内好
 14 満洲国/ 竹内好
 15 蒙彊/ 不明
 16 日本/ 竹内好

これらの人々が回教圏研究所のメンバーであり、中国文学者の竹内好東洋史学者の野原四郎がその研究員だったことを伝えられているが、同所発行の『回教圏』などに発表した論文などは単行本化されていないと思われる。ちなみに『日本とアジア』を含む筑摩書房『竹内好評論集』全三巻を繰ってみたけれど、イスラムや回教に関するものは見当たらなかった。
日本とアジア

それに同書において、これは当然であるけれど、竹内が担当した「日本」に関する記述はわずか五ページで、先に示した全十六章のうちで最も短い。その概略をたどれば、次のようなストーリーになろう。日本と回教圏との接触は日露戦争における日本の勝利が回教諸民族に力強い感動を与え、覚醒をもたらした。そして大正十五年にはトルコ共和国との間に大使が交換され、初めて回教圏との公的な修好関係が結ばれるに至った。それにイラン、アフガニスタン、エジプトが続いた。

これらの回教諸国との関係成立のかたわらで、各国各地からの回教徒の来朝も増加した。とりわけインド回教徒は富める商人として神戸を中心に活動し、またソ連より亡命してきたトルコ系回教徒は東京や神戸などに在住することになった。そして彼らが日本回教徒の大部分を占め、日本での回教寺院の建立に至っている。

日本人として回教徒となった者はまだ極めて少数で、大学における回教学の講座はわずか早稲田大学などにしかなく、学術研究を目的とするものとしては、昭和八年にスタートし、十三年に設立された回教圏研究所、それに東亜経済調査局、及び東亜研究所、文化工作を目的とするものは、やはり十三年に創立された大日本回教協会があるが、西洋のそれらに比べれば、著しく立ち遅れ、まったく同日の論ではない。定期刊行物としては回教圏研究所『回教圏』、東亜経済調査局『新亜細亜』などがある。

大東亜戦争の目的は、東アジアより米英の勢力を駆逐し、日本を中心に東亜に新秩序を建設することにある。それは世界史の転換、自己の尊厳を絶えず打ち砕かれてきた回教圏の解放をも意味する。そして竹内は次のように結論づける。「米英打倒を当面の目標とするわが聖戦の遂行は、必然的に、全回教徒問題打開の使命をわれらに担わせるに至つた」と。

他の章と比べて、最も短い「日本」のこのような記述は、「我が聖戦の遂行」の最中にあるにもかかわらず、きわめて冷静で、日本における回教圏問題が軍部を中心にしてもたらされたものであり、フィクションに近いという認識に貫かれているように思える。

竹内の回教圏研究所在籍は昭和十五年から二〇年までとされる。だがそれ以前の同九年には武田泰淳たちと中国文学研究会を起こし、一二年からは二年間北京に留学し、入所後の一九年に最初の著書として刊行される『魯迅』日本評論社、のち未来社)を構想しつつあったと思われる。それゆえに、魯迅にならってとはいわないにしても、『概観回教圏』の分担原稿にあって、そうした動向と心象が反映されていたはずであり、それがとりわけ「日本」とへとダイレクトに表出しているように読める。
魯迅未来社版)

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