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古本夜話581 東京政治経済研究所『一九二〇−三〇政治経済年鑑』

本連載564「大川周明、井筒俊彦、東亜経済調査局」で、昭和七年に先進社から刊行された東亜経済調査局編『一九三〇年一九三一年支那政治経済年史』を紹介しておいた。

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そこで満鉄は初代総裁の後藤新平の「文装的武備論」の意向のもとに、明治四十年に満鉄調査部を発足させ、それに合わせ、東京支社ともいうべき東亜経済調査局を設置したことにふれた。これは調査機関であると同時に、現在のタームからすれば、シンクタンクと呼んでもいいし、満鉄だけでなく、前回も東亜研究所を挙げたが、そのような機関が昭和に入ると、国家や民間を含めて多く設立されたと考えられる。そしてその活動は必然的に雑誌や書籍の刊行という出版活動を伴っていたので、それに併走する出版社が存在したのである。そうした例として同570で同人社と白水社、578で生活社、579で河出書房などを挙げておいた。

そのようなシンクタンクと見なせる東京政治経済研究所があり、「最近十年の日本」に関する『一九二〇−三〇政治経済年鑑』が、昭和五年に日本評論社から刊行されている。これには「昭和六年版」とあるが、日本評論社も全出版目録が出されていないので、他年度版の存在は確認できていない。その「はしがき」を読むと、次のように述べられていた。社会の根幹をなす政治経済現象について、科学的観測のためには素材としての事実の収集と記録、分析と批判が不可欠だが、これまで専門的にすぎるか、粗放乱雑で系統だっていなかった。それゆえに「我国に於ける政策・経営その他に対する研究の一大礎石として」、「各部門に関する重要な事実を収集し、これを一定の見解の下に系統的に編述されたる政治経済年鑑の刊行」は「やがては歴史的記録の一大集成となるであらう」と。

その内容は「政党・与論」から始まり、「政治・経済年表」に至る二十八のセクションから構成され、そこには「植民地」「失業問題と産業合理化」「労働組合・農民組合」といった昭和戦前の表象たる事柄も含まれている。菊判上製函入、定価三円二段組七百ページ余に及ぶ大冊は、「年鑑」にふさわしいシンプルな重厚さを備える装丁ともなっている。

「編集後記」によれば、東京政治経済研究所の目的は政治・経済に関する科学調査、研究で、その事業として、年鑑編集、諸政策、綱領などの研究と発表、統計資料の収集と整理、研究会の開催が挙げられている。その主たる執筆者は同研究所の同人七名である。それらは蠟山政道、嘉治隆一、浦松佐美太郎、山中篤太郎、松本重治、後藤信夫、茗荷房吉、荘原達で、「編集後記」は蠟山が書いている。この年鑑は世界の代表的な年鑑や年報類を研究し、その一長一短からそれぞれの長所を抽出し、「本年鑑は我々の要求するものを独創的に生み出さうと努め、数多くの年鑑・年報中に、若干新機軸を編み出したつもりである」との言も見える。

たまたま手元に同じく浜松の時代舎で入手した昭和四年版の時事新報社編纂『時事年鑑』があるが、これは現在の新聞社の年鑑と共通するもので、「緊要諸知識の淵泉、最近各種統計、日常実用の百科全書」を謳い、社会の総花的データの色彩が強い。これに比べれば、東京政治経済研究所の日本評論社版は確かに「有機的な関連の下にある政治経済の重要事項が選択されてゐる」し、これまでになかった年鑑の範を示したといっていいのかもしれない。

この東京政治経済研究所については、同人の松本重治が『上海時代』(中公文庫)の中で、一節を割いている。その発端は昭和四年に京都で開かれた第三回太平洋会議(パシフイツク・コンフエランス)にあった。日本は新渡戸稲造を団長とする主催国として、アメリカ、イギリス、中国、カナダなどが参加した国際会議であり、そのうちの最も大きな課題は満州問題だった。その日本代表の一人が蠟山政道、セクレタリーとして松本の他に、松方三郎と浦松佐美太郎が選ばれていた。それを回想し、松本は次のように書いている。

上海時代 上 上海時代 下

 この太平洋会議の結果、蠟山さんと松方君、浦松君、それに嘉治隆一さんや市村今朝蔵君、荘原達君などと語らい合って、何か、研究と発表を通じて国内の啓蒙をやらなければ、満州問題はいよいよ戦争になる可能性があり、何とか回避したいということで、東京政治経済研究所を虎の門の不二屋ビルに設立した。おそらく、昭和五年(一九三〇年)の二月だった。蠟山さんは、京都の会議のため、満州問題の調査主査をやり、その学問的な研究発表を通じて世界的に有名になっていた。当時三十四歳、すでに教授になっていたが、研究所の面々はみんな三十歳前後で若かった。日本を中心とする国際政治の共同研究をすることと、一般的啓蒙のための、『日本政治経済年鑑』『世界政治経済年鑑』『世界と日本』などを、一、二年おきに、編集、刊行したことであった。所員の面々は、みんな手弁当でやったのだが、事務所の家賃だけは、背負いきれず、松方三郎君の実兄森村義行さんが支払ってくれていた。

松本は『日本政治経済年鑑』と誤記しているが、これが『一九二〇−三〇政治経済年鑑』に他ならないことはいうまでもあるまい。他の二冊も日本評論社から出されたのであろうか。だがこの回想によって、同研究所と同人の由来、同書の奥付の住所が芝区琴平町で、荘原がその代表者となっていた事情がわかる。荘原は社会思想社の『社会思想』の編集者で、浦松を除くと、研究所の全員がかつての社会思想社の同人であり、それゆえに事実上の所長は蠟山だったが、荘原が常勤主事に据えられていたのである。彼は東大卒業後、農民運動に身を投じた後、社会思想社の編集に携わっていたという。

しかしこの松本の回想には版元の日本評論社に関しては何もふれられていない。それは同時代に日本評論社編集部にいた石堂清倫『わが異端の昭和史』(平凡社ライブラリー)や美作太郎『戦前戦中を歩む』(日本評論社)も同様である。日本評論社は当時円本の『社会経済体系』『現代法学全集』『現代経済学全集』を刊行していたことから、それらとの関係を通じて、蠟山が『一九二〇−三〇政治経済年鑑』の企画刊行を持ちこんだと思われる。だがアカデミズムとシンクタンク、その出版社との力関係も作用してか、双方がそれにふれていないことは、両者の当時の関係性を象徴しているのであろう。

わが異端の昭和史 上 わが異端の昭和史 下


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