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古本夜話583 ハウスホーファー「地政学的基底」と『日本』

前回の『新独逸国家大系』第三巻の中に、ミュンヘン大学教授カール・ハウスホーフェルの「地政学的基底」が収録されている。そこには独逸国有鉄道中央観光局日本支局という名入りの、一九三九年の「大独逸国」の折り込みカラー地図が付され、その地政学を彷彿とさせる。

このハウスホーフェルは本連載119で言及した『太平洋地政学』の著者ハウスホーファーと同一人物であることはいうまでもないだろう。したがって以下はハウスホーファーと表記する。しかしあらためてその地政学に基づく地図を見た後、この「地政学的基底」を読むと、次のような書き出しが目に入ってくる。
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 民族とその国家とは地球上の生活空間内のかれらの民族的地盤の上において、その空間内の最初の限界の中に生存競争における彼らの意力とその反作用の力とによつて規定されながらも、もともと生息圏と生活空間に対する自然権から生れ出るものである。

たまたま翻訳されたばかりのティモシー・スナイダーの『ブラックアース』(池田年穂訳、慶応義塾大学出版会)を読んでいるのだが、このホロコーストに関する新しい歴史認識を提出している同書の第1章はヒトラーのいうところの「生存圏」と題され、このタームに思わずハウスホーファーの「生息圏と生活空間」を想起してしまった。もちろん「生息圏」と「生存圏」の言語が異なっていることを承知していても。
ブラックアース 上 ブラックアース 下

『ブラックアース』はドイツとソ連によって国家機構が破壊されてしまったウクライナ=ブラックアースや東欧において起きたホロコーストの実態を浮かび上がらせている。それはあたかもハウスホーファーの地政学の実践のようにも思えてくる。どうしてなのか、スナイダーはハウスホーファーにまったく言及していないけれど、ヒトラーの『わが闘争』(平野一郎、将積茂訳、角川文庫)における外交政策の部分は彼の見解だとされていることからすれば、「生存圏」の思想とは地政学に基づくもので、それがホロコーストへとリンクしていたと考えることも許されるだろう。ヒトラーと同様に、ハウスホーファーも敗戦後に自殺していることも、同じアナロジーを感じてしまうし、それはハウスホーファーの『日本』にも表出している。
わが闘争 上

本連載119でも既述しておいたが、ハウスホーファーはドイツ陸軍参謀部の命を帯び、日露戦争後の明治四十一年から四十三年にかけて日本に滞在し、帰国してミュンヘン大学教授となり、『大日本』『日本国』『日本及日本人』の三著を著したとされている。これらは未邦訳だと思っていたが、昭和十八年に第一書房から佐々木能理男訳『日本』が刊行されていたのである。ただ「訳者の序」によれば、この『日本』は『日本の国家革新・明治時代から今日までの国家構造の変遷』と『旧日本・太古から強国の敷居までの生長過程(一八六八−明治)』の二冊を翻訳編纂したものとのことなので、先の三著の抄訳のような内容であるのかもしれない。

『日本』は前述したように、第一編「日本の国家革新」と第二編「旧日本」で構成され、両編とも地政学から見られた日本論、日本史であり、それは同時に日独比較史ともなっている。ハウスホーファーの意図するところは、日本とドイツが同じような国家構造と国家革新の変遷をたどってきたにもかかわらず、ドイツと異なり、日本だけが英米やロシアに対して自己保存を全うしてきたのはなぜかという問題に他ならない。彼は書いている。

 両国は自給自足のつましい農業国から伸長性に富んだ工業国へと国内構造の徹底的返還を迅速に体験するにいたつたのであるが、両国ともあまりにも狭隘な国土のうへに建設されてゐる割合に人口の増加が急激であつて、このさき従前どほりあまりにも狭隘な地域内における貿易経済に主眼をおいてゐたのでは、食糧供給の可能性はたうてい人口増加率と歩調を合わせていけなくなつた。
 そこで、両国とも人間の国外進出策を講ずべきか、商品の輸出をはかるべきか、といふ峻厳な選択の前に立たされ(中略)、結局、商品の輸出といふことに方針をきめ、それぞれの国土のうへに経済建築を構築することに着手した。ところが(中略)、この経済建築はいきほひ上へ上へと増築されて行つて、全世界の他の諸民族の眼に映つたよりも遙かに越境して脅威を感じさせるやうに見え(中略)、これを取りまく周囲の強国はいづれもこの経済建築の内部に鬱積されてきた対外圧力を逸早く感得するにいたつた。
 ついで、両国の進出地域を獲得するための血みどろな闘ひがはじまつた。(……)

そしてドイツと日本はパラレルに大陸と海外への双方の進出を体験しているが、この両面進出に際して、どこの国と提携すべきかも迫られていると記している。ドイツでの『日本の国家革新』の刊行は一九三〇年(昭和五年)であり、日独伊三国同盟は四〇年(同十五年)だが、このようなハウスホーファーの地政学がドイツばかりでなく、日本においても三国同盟の成立にも大きな影響を及ぼしているのではないだろうか。

これこそは「生息圏と生活空間」の拡大に他ならず、それはヒトラーの「生存圏」思想とつながり、ドイツと日本の大陸と海外への進出、すなわちさらなる「血みどろな闘ひ」へと向かっていくことを暗示させている。しかもハウスホーファーの地政学は「血と地盤」をベースにしているゆえに、ウクライナや東欧において、必然的にホロコーストをもたらしたように思われる。

なお本稿を書き終えてから、『大日本』が若井林一訳で、昭和十七年に洛陽書院から刊行されていることを知った。それゆえにまだ入手に至っていない。
『大日本』

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