出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話584 太平洋協会編「南太平洋叢書」と泉靖一、鈴木誠共著『西ニューギニアの民族』

これは美作太郎の『戦前戦中を歩む』の中でもふれられていないが、泉靖一、鈴木誠共著『西ニューギニアの民族』が昭和十九年十一月に日本評論社から刊行されている。太平洋協会編の「南太平洋叢書」3としてで、B6判並製一三四ページの造本と用紙は粗末になっていて、敗戦が近いことをうかがわせているようだ。戦後の泉は『インカ帝国』岩波新書)などで知られるアンデス文明研究者、文化人類学者だったが、初期の仕事はこのようなものだったのである。
 インカ帝国

「序」によれば、この一冊は昭和十八年に泉と鈴木が海軍ニューギニア資源調査隊の隊員として、現地調査に従事した記録によったものである。上梓は太平洋協会の平野義太郎の尽力によると記されているように、奥付編者名は同協会とその代表の平野となっている。前々回も書いているように、本連載119同120で、平野と太平洋協会については既述しているけれど、ここでもう一度記しておこう。

太平洋協会は昭和十三年に鶴見祐輔によって設立された。これも、本連載581でふれた太平洋会議にも鶴見は関係していたし、それはアメリカや日本などに設立された太平洋問題調査会をベースとして組織された会議と見なしていい。したがって推測ではあるが、太平洋協会もそれらの延長線上に設立されたと考えられる。そして当然のことながら、太平洋協会もまたひとつのシンクタンクだったので、雑誌や書籍の出版に向かい、それに寄り添った一社が日本評論社だったのである。「南太平洋叢書」の他にも、平野と清野謙次による太平洋協会調査報告書として『太平洋の民族=政治学』も出されているが、こちらはやはり本連載120で論じている。

これもそこで挙げておいたけれど、岩波書店も太平洋協会編訳でハウスホーファー『太平洋地政学』を出し、さらに続けて、同協会編「太平洋圏学術叢書」として、清野謙次『太平洋民族学』と同協会編『太平洋の海洋と陸水』を刊行している。人類学者の清野は『太平洋民族学』の「序」において、昭和十七年三月の「未だ戦争が始まつた許り」の日付で、「大東亜共栄圏の諸民族が共存共栄の実を挙げるためには、何人と雖も一と通り広義の人類学を学び置かねばならない世になつた」と記している。そしてインドネシアと印度支那半島、アッサム地方、オーストラリア、オセアニア、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの各民族の社会と文化がそれぞれに「大東亜共栄圏の」として論じられていくのである。つまり大東亜共栄圏は地政学をベースとして、人類学と政治学と民族学が三位一体となることによって推進されるのだ。
[f:id:OdaMitsuo:20160914100626j:image:h115](『太平洋地政学』) 太平洋民族学(『太平洋民族学』)

これで太平洋協会とコラボレーションした出版社は日本評論社に続いて、岩波書店も加わることになったわけだ。さらに川村湊の『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社)を読むと、太平洋協会自体が雑誌『太平洋』を発行し、太平洋協会出版部として、『ソロモン諸島とその付近―地理と民族』『ニューカレドニアとその周辺』なども刊行していたという。もちろんこれらは未見である。また出版社にしても、その他に六興商会出版部や河出書房、創元社なども加わっていたことも。このことに関しては次回にふれることにする。
「大東亜民俗学」の虚実

それならば、鶴見祐輔を専務理事とし、平野が代表となっていた太平洋協会とはどのようなものであり、それはどのようなメンバーによって形成されていたのかということになるのだが、管見の限り、まとまった太平洋協会の研究、及びその組織図やメンバー一覧を目にしていない。平野の死後に出された『平野義太郎 人と学問』(大月書店、昭和五十六年)所収の「略年譜」にしても、昭和十六年のところに「太平洋協会(日比谷・幸ビル)に勤務」とあるだけで、その後の三年間は空白となっている。

またこの追悼文集には八十人以上の友人や弟子たちが寄稿しているし、、本連載580の柘植秀臣の名前も見えているのだが、太平洋協会にふれているのは陸井三郎の「戦中・戦争直後の平野先生」だけだといっていい。後にハーバード・ノーマンの『日本における兵士と農民』(白日書院)の訳者となる陸井は、昭和十八年に人を介して「平野義太郎先生が身を寄せておられた太平洋協会」を尋ね、面接と簡単な質疑だけで、そこに採用された。
[f:id:OdaMitsuo:20160912135159j:image:h120]  

陸井によれば、太平洋協会は内幸町の旧日本放送協会の向かい側の東洋製罐所有の五階建ての幸ビルにあり、五階が本部・出版部、四階が資料室、三階が研究室で、彼はまず司書係として資料室に入れられた。その資料室は太平洋、アメリカ、アジアに関する洋書を主とするもので、三方の壁が天井まで本棚となっていた。そこには研究員、嘱託、常連の来訪者たちが絶えずきていた。それらは平野の他に、信夫清三郎、風早八十二、宇佐美誠次郎、三宅晴輝、清野謙次、守谷典郎、笠間杲雄、松本慎一郎たちだった。そして当然のことながら、、本連載564の東亜経済調査局、同580東亜研究所とも、人材と文献でつながっているようだ。ここでは彼らに関して注釈はつけないけれど、笠間については、同576で書いているので、こちらはぜひ参照されたい。

太平洋協会には平野を局長とする調査局、河合栄治郎事件で東大を辞めた山田文雄を局長とする研究局があり、陸井は資料室から調査局の研究員へと昇格になったが、調査局と研究局は端然と区別されておらず、赤羽壽(伊豆公夫)、井上道人、古沢有造、逸見重雄、関嘉彦、石上良平などがいた。

そしてこの他にも日比谷公園市政会館ビルにアメリカ研究室があった。これは日米開戦後の交換船で帰国した人々を中心とするもので、室長が坂西志保、常勤もしくは嘱託として都留重人、清水幾太郎、鶴見俊輔、鶴見和子、武田清子、松岡洋子、阿部行蔵、福田恒存たちがメンバーだった。

またこれらの人々の他にも、名前を挙げないけれど、本部で開かれる例会にはさらに多くの人々が集ってきたという。

しかし敗戦を受け、鶴見祐輔は戦争責任をとり、太平洋協会の解散を決意する。そしてその資産は平野の主宰する日華学芸懇話会と東ア学術協会、山田の太平洋文化協会の二つに分けられた。平野の「略年譜」の昭和二十年のところに「日華学芸懇話会設立(太平洋協会会議室)に参加」とあるのは、このような経緯を示唆していることになる。それは大東亜共栄圏構想から占領下日本社会への転向を意味していた。旧太平洋協会の平野の部屋には、満鉄や東研から帰ってきた人々を始めとして多数が集まり、中国研究所、世界経済研究所、国民経済研究所、民主主義科学会などが生まれていったという。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら