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古本夜話589 長守善『ナチス経済建設』

本連載582で、中絶してしまったが、昭和十年に刊行され始めた日本評論社の『ムッソリーニ全集』について、このような出版傾向は日本評論社だけでなく、ファシズムやナチズム関連本が多く刊行されるようになったとの美作太郎の証言を紹介しておいた。

私もかつて古書目録の「書砦梁山泊」の欄で、昭和十年代半ばから後半に出されたナチス文献が三十冊ほど並んでいるのを見て、それを実感したことがあった。書名をすべて挙げることはできないので、出版社だけを示すと、実業之日本社、生活社、立命館出版部、春秋社、大原社会問題研究所、日本評論社、朝日新聞社、栗田書店、白楊社、東洋書館、岩波書店、三友社、今日の問題社、慶応書房、コロナ社、第一書房、三省堂、日本国際協会、日本青年外交協会などである。

しかしこれらはナチズム関連本の一部にすぎず、実際にはさらに多くの出版がなされたと考えるべきだろう。それには大東亜戦争下におけるそうした企画出版助成金、及び日本出版文化協会による用紙割当、国策取次としての日配の流通配本も影響していたと見なしていい。すべての出版社が所謂戦時下における特有の出版経済状況に置かれていたのである。したがって、これらは氷山の一角であろうし、ナチズムとファシズムの他に大東亜戦争関連書を加えれば、無数といっていいほどに出版されたにちがいない。それは戦争と出版物の現実であった。
その古書目録に掲載されていた二冊は、それを見る前に古本屋で拾っている。一冊は他ならぬ日本評論社の長守善『ナチス経済建設』、もう一冊は岩波書店のケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』(矢部貞治、田川博三訳)である。いずれも菊判箱入の上製で、学術書的な仕上がりになっている。
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昭和十四年刊行の『ナチス経済建設』の著者の長守善は、美作太郎『戦前戦中を歩む』には登場していない。それは長が円本『社会経済体系』や『現代経済学全集』関係の著者で、両者を企画した日本評論社の鈴木利貞と近かったからではないだろうか。その「はしがき」によれば、長は六年前のナチス政権獲得前に旧著『ナチス』を上梓していて、この『ナチス経済建設』はその改訂版ということになる。第一部はナチスとは何かということについて、旧著の一部を訂正補足し、その運動、思想大系、政治・経済綱領にそって概観したものである。第二部のドイツ統制経済に関しても、五章までは団体国家、労働政策、農業政策に関する全貌の提出を意図している。眼目は六章における四ケ年計画を中心とするナチス経済政策の実績の厳正なる検討であるとし、次のように書いている。

 今や日本が東亜再建の重大な任務を課せられてゐる時、ドイツの果敢な経済建設への努力から汲み取るべきものは少くはあるまい。だが、学ぶべき点が多ければ多い程、其の儘に鵜呑にすることの危険であることは云ふまでもなく、寧ろそれの成否に関する冷静な批判的眼による観察こそ、建設者に取つて常に用意せらるべきところであらう。

それならば、長は第二部六章「ナチス経済政策の実績」において、どのような分析を試みているのだろうか。そこでの長の「ナチス経済建設」についての「厳正な検討」とは次のように要約できるだろう。ナチス経済政策とは自由主義経済や社会主義経済と異なる別個の経済組織を樹立することにある。したがってに要求されているのは共同精神、「民族と国民との有機的全体」で、従来の資本主義、社会主義経済思想に対して、「有機的経済思想」といえる。これを表象するのはナチス経済の絶対命令たる「公益は私益に優先す」という言葉で、労働者、企業家を問わず、すべての経済活動に関する人々に適用され、服従を要求される。

それゆえにナチス経済下にあって、個人は国民全体に対する義務を負い、共同の利益のために働き、「全体利益」を阻害してはならないので、経済活動の重心は最大の利潤獲得ではなく、「全体の為にする奉仕」ということになる。だから価格形成における経済の自立性は認められず、全体の利益に反する経済の自律性も否定され、経済の方向は国家の意志によって決定される。これがナチス統制経済というべきものだが、その運用の実際は「著るしく官僚化され」、その結果は「著るしい産業の非能率となって現はれざるを得ない」。

このような視座のもとに、「第一次四ケ年計画の成果」と「進展」がたどられていく。そしてとりあえずは失業率の減少、農民の生活水準の上昇、再軍備計画などを評価しているのだが、長の真意は次のような文言にあると断言していいだろう。それは「其処には極めて無理な、屢々経済原則も無視した諸計画の強行がなされた」し、そこには「窺ひ難いからくりが行はれてゐる」との言に表われていよう。

長がどのような人物なのかは知らない。だが彼がナチスに対して、その統制経済に反対する立場にあることは疑いを得ない。多くのナチス関連書が出されたけれども、『ナチス経済建設』のようにアンチの立場も含まれていたにちがいない。

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