本連載589のところで挙げた古書目録に、昭和十六年刊行の菊地春雄『ナチス労務動員体制研究』があり、出版社は東洋書館だった。これは未見だが、同じ著者、同じ出版社の『ナチス戦時経済体制研究』は入手している。奥付を見ると、昭和十五年発行、十七年三刷発行、やはり菊判上製函入、四二〇ページに及び、学術書的造本である。
著者の菊池は企画院調査官とあるけれども、定かなプロフィルはつかめない。それは発行者を大井徳三とする東洋書館も同様で、ここで初めて目にする版元だといっていい。菊池のほうはタイトルからわかるように、ナチス戦時経済の研究者で、その成功は近代国家総力戦の遂行上において、何よりもナチスの「組織・体制」が重要であることに注視し、研究を進めてきたとされる。また巻末の出版広告を見ると、東洋書館も大東亜戦争下の戦時経済、法律、産業、労働の分野の著作を刊行することによって、菊池の所属する企画院を始めとする諸官庁やアカデミズムに寄り添ってきた出版社と見なせるだろう。
本連載580でも、東亜研究所が企画院によって設立されたことを既述したが、戦時下にあって、企画院は出版社に対しても大きな影響力を持っていたにちがいない。企画院は昭和十二年位、企画庁と資源局が統合され、内閣直属の総合国策立案機関として設立された。だが実際には各種の総動員計画、生産力拡充計画の立案が主要な業務となり、物資動員計画、国家総動員法案などに加え、賃金、労務、交通などの各分野における動員計画も作成したとされる。
実はこのような企画院の様々な計画にそのまま重なっているのが、東洋書館の「労務管理全書」である。少し煩雑になってしまうけれど、このような機会がないと言及とリストアップもできないと思われるので、その代表者と思われる桐原葆見名による宣伝コピー文、及び書名と著者とその所属を示す。
新しき大東亜建設のために最も要請せらることは生産の確保である。国民のすべてはこの国家の意志を體して、総力をこれにむかつて終結して来たのである。この国家の至宝たる生産能力をあくまでも、よく育て、正しく用ゐ、厚く護り、以て国民各個をその業務に於いて錬成し、その志を暢達すべき労務管理の任務の、今日より重大なるはない。産業は全面的に新しい體制を整へねばならぬ秋が来た。そこに於ける勤労も亦新たなる建設的體制にならなければならぬ。この為の労務管理が従来の常識的な側面的指導であつたのでは間に合はぬ。生産の経営と技術と協同した専門的指導の方法の確立を要する。本全書は斯かる要請に應へんが為に各方面に情熱をもつて現に働いてゐる専門家が夫々の蘊蓄を傾けた無双の叢書である。
1* 戦時労務管理 労働科学研究所 桐原葆見 2* 産業報国会の組織と運営 大日本産業報国会 佐々木正制 3 労務動員 企画院調査官 鶴島瑞夫 4* 労働配置 厚生省厚生技師 狩野廣之 5* 労務輔導 職業指導所技師 伊藤 博、村中兼松 6 技能養成 厚生省技師労務監督官 三井 透 7* 勤労人の錬成 大日本産業報国会 廣崎眞八郎 8* 職長養成 日本製鐵参事 大内經雄 9* 勤労文化 日本製鐵労務課長 鈴木舜一 10 賃金制度 厚生省厚生技師 大西清治 11 工場青年学校 東京帝大助教授 海後宗臣 12* 疲労と休養 京都帝大講師 古澤一夫 13 労働衛生 大阪帝大教授 梶原三郎 14* 産業保健管理 労働科学研究所 勝木新次 15* 工場安全 労働科学研究所 上野義雄\ 16 職業病 労働科学研究所 赤塚京次 17 産業体育 産報厚生部長 野津 謙 18* 工場寄宿舎管理 大日本産業報国会 佐々木正制 19 女子労務管理 労働科学研究所 桐原葆見 20* 傷痍軍人労務輔導 軍事保體院技師 辻村泰男 牧村 進 21* 徴用労務管理 日本光学労務課長 乗富丈夫 22* 轉業者及女子労務輔導 職業指導所技師 伊藤 博、村中兼松 23* 工場保健衛生 医学博士 栗原 操 24* 労務統制法 前台北帝大教授 後藤 清 25* 婦人労務者保護 労働科学研究所 古澤嘉夫 26 工場食糧 労働科学研究所 有本邦太郎 (*印=既刊)
桐原に関しては『「現代日本」朝日人物事典』(朝日新聞社)にその立項を見出したので、それも引いてみる。
桐原葆見 きりはら・しげみ 1892・11・10〜1968・5・2 産業心理学者。広島県生まれ。1919(大8)年東大心理学科卒。21〜37(昭和12)年倉敷労働科学研究員となり、37〜50年この機関が改組された東京の労働科学研究所の所員、51〜57年所長。61〜65年日本女子大児童学科教授。倉敷労研時代、紡績女工の月経と作業能力の関連を研究したほか、40年代には桐原ダウニー式性格検査の開発など、精神発達の測定に関する論文・著作が多数あり、人間性を尊重した技術教育にも貢献した。
ここで桐原が19 の『女子労務管理』を担当している理由がわかる。そしてその所属が労働科学研究所であることから、14、15、16、25、26の著者たちが召喚されていることになる。だがこれは突き合わせて初めて見えてくる事実である。それは桐原に限らないけれど、このような人物事典の立項からは戦時下の動向が明確に言及されておらず、桐原と企画院と東洋書館の関係は伏されている。「実務全書」刊行中の昭和十六年には革新官僚たちの「経済新体制要綱」をめぐって、企画院事件が起き、調査官や職員グループ十七人が治安維持法違反容疑で検挙されている。この事件に、桐原や「実務全書」を始めとする東洋書館の著者たちも関与していたのだろうか。それも定かでないことを付け加えておこう。
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