出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話608 文芸誌『風雪』、風雪社、小笠原貴雄『風雪』

前回、六興出版社の大門一男が文芸誌『風雪』の発行を引き受け、それに専念しようとしたことを、清水俊二『映画字幕五十年』を通じて記しておいた。
映画字幕五十年

その『風雪』だが、これは『日本近代文学大事典』に立項されている。それは意外に長いもので、この『風雪』が戦後の時代にあって、かなり著名な文芸誌だったことを教示している。全文を引用するわけにはいかないけれど、それを引いてみる。

 「風雪」ふうせつ 文芸雑誌。昭和二二・一〜二五・八。本誌は当初の一年間は風雪社から発行され、二二年一二月以降、六興出版社の手に移った。題名は石川達三の命名。風雪発行人の小笠原貴雄は、戦時中に日本青年文学者会に属していた一誌「辛巳」の同人で、この雑誌仲間の北条誠巌谷大四、石川悌二、柴田忠夫、重光誠一、倉崎嘉一らを中心に、先輩の石川達三丹羽文雄、寺崎浩、井上友一郎、田村泰次郎、多田裕計、八木義徳、野村尚吾らの参加を請い、同人雑誌として本誌を発足させた。いっぽう、小笠原は風雪社から田村泰次郎の『肉体の門』、丹羽文雄の『理想の良人』『厭がらせの年齢』、織田作之助の『妖婦』などを出版し、戦後の文芸出版社としていちじ注目された。そして、「風雪」も同人誌というより営業的文芸雑誌の様相を呈してゆき、やがて前述のごとく六興出版社に、その経営をゆだねるに至ったのである。(後略)

発行人の小笠原が『風雪』で当初構想したのは早大系の作家の連繋だったが、中村八朗の『文壇資料十五日会と「文学者」』講談社)に描かれているように、『風雪』が六興出版社へと移った段階で終わったことになる。だがそれは丹羽文雄が主宰する十五日会、及び八木、野村、石川たちによる『文学者』の創刊へと継承されていった。先の立項は小笠原に関して、「同時に、小出版社が大出版社の躍進に抗しきれなくなってゆく当時の出版界の情況の犠牲者の一人として彼の名をとどめるに終ったのであった」と記している。この小笠原の立項も『日本近代文学大事典』に見出せるので、この際だからこれも引いておこう。
『文壇資料十五日会と「文学者」』

 小笠原貴雄 おがさわらたかお 大正六・一〇・八〜昭和四九・二・一(1917〜74)小説家。山口県生れ。本名好彦。早大国史科卒。「十五日会」に加わり、「文学季刊」「文学行動」等に作品を発表。戦後の風俗に絡ませて男女の愛慾の謎をえぐった『色欲』(「文学季刊」昭和二二・一〇)をはじめ、『オリンパス物語』(「文学行動」昭和二四・九)などの作品にアルチザンとしての筆の冴えを示した。著書に『ゴーゴリ喫茶店』(昭和二三・一〇 風雪社)がある。

ここでは小笠原の『風雪』と風雪社に関しては何も語られていない。しかし彼にとってこの戦後の時代の出版にまつわる体験は「男女の愛慾の謎」よりもはるかに深刻な、それでいて滑稽なものだったと思われる。彼は晩年にその体験をコアとする小説に取り組んでいたのである。ただ晩年とはいっても立項からわかるように、まだ五十代だったけれど、その上梓を見ることなく、亡くなっている。その「千五百枚の遺稿」のことは先の中村の著書でも言及され、「それは敗戦直後の文学青年達の生き方を追究していた。出版の仕事に飛び込んで、闇の紙や資本力にふりまわされて生きる主人公の哀歓がみごとに描き出されていた」と述べられていた。それゆえに丹羽文雄の推挙を受け、小笠原未亡人の手で『風雪』(彌栄出版)と題され、昭和五十二年に刊行されている。私が入手したのはやはり十五日会関係者の福島保夫宛の献呈本で、彼女の名前で「遺稿を出版致しましたので御読みいただければ幸に存じます」としたためられていた。

小笠原が戦後の出版界を背景とする『風雪』を構想したのは、バルザックの十九世紀前半のパリの出版界を描いた『幻滅』生島遼一訳、河出書房、野崎歓他訳、藤原書店)を念頭においてだと思われる。バルザックはこの時代の出版界を、文学青年たちから見た魑魅魍魎とした世界として描き出し、近代出版資本と文学の相関関係を露出させている。それは拙著『ヨーロッパ本と書店の物語』平凡社新書)においても、『幻滅』の私訳を示し、論じているので、よろしければ参照されたい。
幻滅 ヨーロッパ本と書店の物語

この『風雪』は風雪社と文芸誌『風雪』をめぐる金と紙の問題をテーマとしていて、実名と仮名が入り乱れて語られている。これらはほとんどが実話に基づいているのだろうし、主人公の大原雄三は小笠原その人で、その他の登場人物たちを実名に置き換えて読むことも、それなりに面白いと思われるが、ここでは出版社のことだけにとどめたい。

『風雪』のコアは主人公の雄三と紙ブローカー沢北との金をめぐる葛藤と関係して読むことができる。この沢北は小笠原の『ゴーゴリ喫茶店』を昭和二十二年に刊行した風雪社の発行者澤本貫と見なすことができよう。同様に『風雪』や田村泰次郎『肉体の門』などの発行者であろうし、小笠原はそれらの編集者として、澤本に翻弄され、『幻滅』ではないけれど、金と文学の相克の渦中に追いやられることになる。おそらく雨後の筍の如く出版社が設立されたという敗戦直後の数年間ほど、出版をめぐるトラジコメディが至るところで繰り拡げられていた時期はなかったと思われる。まさに小笠原はその時代を作家、編集者、出版者としてくぐってきたことになる。それは小笠原ばかりか、彼の周辺の小出版社の現実でもあった。

そしてそこには六興出版社の大門も登場し、次のように紹介されている。大門は「翻訳の著書もあるし(中略)温厚な人で雄三にも何か書いたら遠慮なく読ませてほしい、縁があって自分が編輯するが、貴方が始めた『風雪』なんだから、と励ましてくれるような人柄であった」と。六興出版社が『風雪』を継承したのは一頃の出版の景気が去って、余った編輯員に仕事を与えるためという理由もあったことも記されている。

ここに描かれた大門の人柄、及び六興出版社の事情からして、月刊文芸誌『風雪』がどのような道をたどったかはいうまでもないだろう。だが考えてみれば、大半がトラジコメディで終わったと思われる出版社幻想が、この時代ほど開花したことはないように思われる。現在もまた第二の敗戦だと想定できるけれど、もはや出版社幻想は壊滅してしまったし、出版社そのものも消えていく一方である。とすれば、出版に希望があった時代はまだのどかだったといえるかもしれない。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら