出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話615 国際経営会、『猶太研究』、増田正雄

前回も挙げておいたが、宮沢正典の『増補ユダヤ人論考』によれば、同じく本連載で言及してきたように、ナチス文献の翻訳が盛んになる一方で、昭和十年に入ると、ユダヤ関係の出版物も激増していった。そして従来の一般雑誌に加えて、ユダヤ問題専門の雑誌も出されていく。それは外務省の外郭団体と目される国際政経学会の不定期機関誌『国際秘密力の研究』であり、その後身が月刊誌『猶太研究』となり、反ユダヤ陣営の中枢でありながらも大東亜戦争下においては日ユ同祖論へと傾斜していったとされる。
増補ユダヤ人論考

国際政経学会は昭和十一年に増田正雄を代表者、四王天延孝を顧問、赤池濃を理事長として発足している。増田は本連載121、四王天は同112で既述しているように、当時の代表的な反ユダヤイデオローグだが、赤池は貴族院議員である。国際政経学会は東京市麹町区内幸町のビルに置かれ、それは前々回のゾンバルト『ユダヤ人と資本主義』を刊行した国際日本協会と同じエリアに位置することからすれば、何らかの関係を有していたと考えていいだろう。国際政経学会は二五〇人の会員を有し、ユダヤ研究の出版や講演、全国各地での講習会の開催を行ない、最大の組織と行動力を有していたという。

本連載121で書いておいたが、増田正雄は柳田国男の戦時下の「炭焼日記」などにも登場し、柳田に高楠順次郎の『知識民族としてのスメル族』をもたらした人物であったが、長きにわたってそのプロフィルは定かでなかった。それがようやく「国際政経学会常務理事増田正雄の正体」(「神保町系オタオタ日記」2008・4.112016・9.12)で明らかにされた。それによれば、増田は明治二十三年東京生まれで、大正時代には大阪において日露実業会社という貿易商を営んでいる。この社名からして、日本とロシア間の貿易に従事していたと見られるので、やはり多くの反ユダヤ人論者と同様に、日露戦争に関連してユダヤ人問題へとリンクしていったのであろう。なお増田は昭和に入ると、東京に戻り、幌糠炭鉱社長や日本電解製鉄所取締役を務めていたようだ。また彼の宗教は神道であることも付け加えておこう。

その増田の国際政経学会が発行していた『猶太研究』、昭和十九年九、十月合併号、同十一、十二月合併号の二冊が手元にある。といってもこれは実物ではなく、それらのコピー製本で、晩年にトロッキストから反ユダヤ論者へと転回し、ユダヤ陰謀書などの翻訳を刊行していた太田龍が、同様のセミナーで配布していたものを入手したからだ。

これらの両号とも、便宜上前者、後者と呼ぶことにするが、増田は巻頭に書いていて、前者にはほぼ半分を占める三十ページに及ぶ「米英とソ連、ソ連と猶太、米ソと日本の関係」を掲載している。これは前年十一月にイランのテヘランで開かれたアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの三国首脳会議、それに基づく対ドイツ戦略、ソ連の対日参戦問題を背景としていると思われる。だが反ユダヤ論者にしてみれば、アメリカとイギリスだけでなく、ソ連にしても背後に控えているのはユダヤなのだ。
それゆえに増田は昭和十九年世界状況について、次のように書いている。

 米英の指導実験を握つてゐる勢力は米とか英とかソ連とかの個々の民族の幸福や安定には何等の興味を持たないで、唯一筋に世界国家の樹立の下に世界支配の願望に立つてゐるユダヤ勢力なのである。米英ソはユダヤ世界支配の足場に過ぎないのだ。(中略)多数決政治によつて国家の行動が決定する建前の米英、又政府独裁のソ連ではその多数権や独裁権を握つてゐるユダヤの要求が結局米英ソの動向を決定づけるのであつて、米英ソの人民の要求は通らない建前に置かれてゐるのである。(中略)即ち米英の多数権やソ連の独裁権がユダヤにある事が納得できれば昨今現はれてゐる米英とソ連との複雑性や矛盾性が正しく解釈できるのである。

これが反ユダヤ論者の増田の昭和十九年まつの国際状況視座に他ならない。このようなユダヤの日本打倒状況下にあって、「此の戦争が結局勝だらうとか負けるだらうとか、そんな未来の事は我等の考ふべきことではない」し、「天皇の御稜威が世界を光被するか、悪魔が世界を奴隷化するかの大戦争である」と結ばれている。

これらの見解が増田のみならず、国際政経学会の人々、あまたの反ユダヤ論者の行き着いた結末であったのだろう。『猶太研究』には「国際政経学会会則(抜萃)」が掲げられ、その第一条に「本会ハ国際政経学会ト称シ猶太人問題及ビ国際秘密力ニ関スル研究並ニ調査ヲ為シ其ノ結果ヲ発表スルヲ目的トス」とあるが、その着地点が増田の「米英とソ連、ソ連と猶太、米ソと日本の関係」なる一文に象徴的に表出していることになろう。

前者よりもコピーが鮮明な後者の奥付を見ると、こちらも印刷事情が悪化しているためか、発行は昭和二十年三月となっている。それでも「第四巻第七〇号」との記載から、昭和十六年から五年間にわたって刊行されてきたことを伝え、「会員頒布」「非売品」とあるにもかかわらず、配給元として日配も明記されているので、『猶太研究』が取次を通して流通販売されていた雑誌だとわかる。編輯兼発行人は蘇理伊太郎となっているが、どのような人物なのであろうか。また反ユダヤ論者たちがペンネームを多用していることからすれば、この蘇理も同様かもしれない。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら