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古本夜話691 ポール・ケーラス『悪魔の歴史』

前回のポール・ケラス=ケーラスだが、平成六年になって、未邦訳の『悪魔の歴史』(船木裕訳、青土社)が刊行されている。これは「悪魔学」の古典としての翻訳とされているが、それもあってか、正面からの言及を見ていないので、ここでふれておきたい。それに原書刊行年からすれば、シカゴ万国宗教大会とパラレルに執筆されていたと見なせるからだ。その前に原書タイトルと出版社名、刊行年を記しておく。Paul Carus, The History of Devil and the Idea of Evil (The Open Court, Publishing Co., Chicago, 1899)

『悪魔の歴史

ちなみに前々回既述したように鈴木大拙が釈宗演を通じてアメリカに渡り、ケーラスのオープン・コート出版社に勤めたのは明治三十年=一八九七年のことだから、この『悪魔の歴史』にしても、大拙が編集に関わったことも考えられるのである。とすれば、同書は大拙の思想にも何らかの影響を与えているのかもしれない。

またここでポール・ケーラスの簡略なプロフィルも提出しておきたい。彼は一八五二年にドイツのザクセン州に生まれ、ストラスブルク大学などで哲学などを学び、博士号を取得し、教職についたが、当局からの思想的弾圧を受け、アメリカに移住した。そしてアメリカでオープン・コート出版社を興し、雑誌『オープン・コート』を創刊し、ラッセル、ポアンカレ、デューイといった欧米の思想、とりわけ仏教思想に傾斜し、仏教的な一元論の立場にあったとされる。没年は一九一九年である。

そのケーラスは『悪魔の歴史』において、「われわれのこの世界は対立物の世界である。光と影があり、寒と暖があり、《神》と《悪魔》がある]と二元論から始めている。そうして宗教の原始状態での悪魔崇拝古代エジプトのデーモンのセト、アッカド古代文明の悪しき伝説、ペルシアの文明の起源を特徴づける悪魔崇拝から神崇拝への移行と宗教の二元論の発生、『旧約聖書』に見えるサタンの出現、宗教と哲学の原初の故郷としてのインドにおける一元論の強い傾向、汎神論的ブラーマニズムとヒンドゥズム、仏教の悪魔たちに対する宗教改革というべき、その存在の容認、全生物を包含する愛情と自我の解脱、新しい時代の夜明けとしての『旧約聖書』から『新約聖書』への過渡期、初期キリスト教においての悪魔の重要な役割、そして形成される悪魔信仰とその全盛、異端信仰と宗教改革の時代の到来、魔女狩りとその廃止、詩歌と伝説の中での悪魔と哲学的問題などがたどられていく。

それらは多くの悪と悪魔を表象する絵画や図版を配して語られ、両者の表象史、観念の変遷史を形成していることになる。「仏教」のところで、『ミリンダ王の問い』平凡社東洋文庫)が引かれ、その出典が『東洋の聖典学』のT・W・ディヴィスの訳による記述からすれば、これは本連載514などのマックス・ミュラーが編纂した『東方聖書』によっていることは明白で、『悪魔の歴史』の資料の多くが『東方聖書』に基づくとの推測も可能である。ミュラーは一八二三年生れで、ケーラスと世代は異なるが、いずれもドイツ人であり、ケーラスはイギリス経由でアメリカへ移住しているので、ミュラーと面識を得ていることも想定される。
『ミリンダ王の問い

それに日本においても、ミュラーの弟子であった高楠順次郎を中心として、本連載656などで繰り返しふれてきた『世界聖典全集』が編まれようとしていた。これは『東方聖書』を範とする、その日本版ともいうべき企画に他ならなかった。その執筆者として鈴木大拙が参画していたことは 同655でもふれておいた。また拙稿「地震と図書館」(『図書館逍遥』所収)でも既述しているが、高楠の尽力によって日本の帝大図書館へと移管されたマックス・ミュラー文庫の関東大震災における焼失、内田魯庵のいう「典籍の廃墟」も生じていたのである。
世界聖典全集 (『世界聖典全集』) 図書館逍遥

これらを総合的に捉えるならば、ケーラスの近傍に大拙がいたこと、『悪魔の歴史』の出版、ミュラーと高楠の関係とミュラー文庫の日本への移管と焼失、『東方聖書』と『世界聖典全集』の企画などが、一元的とはいえないにしても、ほぼ共時的に起きていたことになる。これらは偶然の暗合というよりも、まさに連鎖していると見なすべきだろう。

ここで『悪魔の歴史』に戻れば、前述のようにして、悪と悪魔の歴史をたどった後で、ケーラスは「悪があるからこそ、善は善なのであり、悪があるがゆえに、神はあるのだ」と結論づけ、次のように結んで『悪魔の歴史』を閉じている。

 神は何よりも大切なものだから、行為の究極の根拠と見なされるものの、それ自体は決して善でも悪でもない。ところが、かれは善のうちにあり、また、悪のうちにある。かれは善と悪とを包含する。(中略)この意味で、かれは悪それ自体のうちにも存在する。悪、誘惑、そして罪でさえもが、善を引き出す。つまり、それは人間に教える、見る眼を、聞く耳を、また知覚する心をもつ者は、まさに悪の存在そのものから教訓を読みとるであろう。その教訓は、悪があおる恐怖にもかかわらず、紛うかたなく、神々しい人生の崇高に劣らず、印象的であり、神聖である。こうして、サタンの存在は紙の摂理の一部分をなすということが明らかになる。まさしく、われわれは悪魔こそが神のもっとも必要不可欠にして忠実な協力者であると認めなければならない。神秘めかしていえば、悪魔の存在さえもが神の存在で満たされているのである。

これこそ神と悪魔に関しても一元論者であるケーラスの真骨頂を物語っていよう。


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