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古本夜話700 東亜協会編著『北支那総覧』

 前回岩野夫妻の大東出版社にふれたこともあり、この版元の仏教書以外の書籍も取り上げておきたい。

 まずは東亜協会編著『北支那総覧』で、昭和十三年の刊行である。菊判上製五〇五ページ、入手したのは裸本だが、定価が参円八拾銭とされていることからすれば、函入だったと考えられる。奥付の著者のところは東亜協会出版部/代表平野英一郎と表記されているので、大東出版社が発売所を引き受けた書籍と見なすこともできる。

 『北支那総覧』には本扉に続いて、河北省、山東省、河南省、陣西省などカラー版「北支詳細地図」が折りこまれ、その後に「序」が置かれ、次の文言から始まっている。

 北支那は現下我海陸将士の新戦場であり、世界注視の標的である、茲に新政権は樹立され、東洋平和再建設の曙光が輝きつゝある。
 北支那は、今次事変に依り愈々我国と絶対不可分の関係に進展し、我国に取つては、単なる隣国の問題ではなく、実に国内問題同様の緊急性を帯びるに至つたのである。

これに少しばかり補足しておけば、昭和十二年七月に起きた盧溝橋事件に対し、近衛内閣は内地師団出兵を声明し、これを北支事変と呼び、後に支那事変と改称している。このような状況下において、北支那は「新戦場」にして、「隣国の問題ではなく、実に国内問題同様の緊急性を帯びる」ことになり、『北支那総覧』が刊行されるに至ったのである。東亜協会は事変発生と同時に華北協会として創立され、これもまた改称されている。同時期において、近衛声明である「東亜新秩序の建設」、及び石原莞爾や宮崎正義たちによる思想運動団体としての東亜連盟の結成が進められていたことを考えれば、その改称もそれに連動していたと見なすべきだろう。

ただ東亜協会の設立経緯、立項や言及は見出せないけれど、「本会員研究の一端を北支那総覧として公表」したとされているので、その内容と執筆者名を挙げてみる。

第一章
 第一節 総覧 陸軍大将松室孝良
 第二節 政治  〃   田中正文
 第三節 地理 商科大学 佐藤弘
 第四節 文化 日本芸術学校教授 一氏義良
第二章 資源  魯大公司顧問/早稲田大学講師 市吉崇治
第三章 産業  東京日日新聞社経済部副部長 藤岡啓
第四章 交通  東亜協会理事 平野英一郎
 第五章 財政  東洋経済新報社国際部長 根津知好
 第六章 金融         〃
 第七章 貿易  慶応大学講師 吉田寛
 第八章     法学博士 大山卯次郎

 これらの東亜協会の会員とされる十人のうちで、佐藤弘は本連載683でふれたばかりであるが、ここでの佐藤は日本でいうところの北支那に関して、山東、河北、山西の三省に、内蒙古の察哈爾、綏遠の二省を加えた五省だと述べ、地理学者の顔を見せている。その他の人物に関しては、肩書以外のプロフィルを付け加えれば、一氏は美術評論家、大山は元サンフランシスコ総領事である。また肩書から推測すれば、東亜協会は北支那のこれらの状況に通じた軍人、アカデミズム研究者、ジャーナリストを中心とするものであろう。

 そこでその理事にして代表とされる平野英一郎の「交通」を読んでみると、支那における鉄道の実態から始まっている。平野によれば、支那は広大な国土、多大な人口、豊富な資源を有しながらも、交通問題から見ると、以前として旧時の南船北馬の域を脱していない。鉄道は八千余粁の国有鉄道に、省有私有の各鉄道を加えても、全長わずか一万粁に過ぎず、中央集権的、近代的国家として建設することを困難にしているし、資源の開発と産業の発達の障害となっている。それゆえに鉄道建設工事は支那にとって経済建設だけでなく、政治的にも軍事的にも文化的にも急務であったし、それは事変後も変わっておらず、まず力を注ぐべきは交通の整備、発達の問題である。

 このような視座のもとに、外国資本によって建設され、借款契約を結んでいる主要鉄道の実態、北支八鉄道と同浦鉄道の営業成績と負債も含んだ概況がレポートされている。それに続いて、これもまた自動車路と公路を中心とする道路、航海海、河川や運河などの水運と海運、それに湾港問題も言及される。現在のタームに置き換えれば、北支那におけるロジスティクス問題が提出され、分析されていることになる。

 これらを読んで見ると、プラグマティックな視点と既述から、平野はアカデミズムに属する研究者やジャーナリストではなく、満鉄において実際に鉄道事業に携わったテクノクラートではないかと思えてくる。このような北支那の鉄道の実態に関する包括的視線は、軍人とも異なる実務家のもののように感じられるからだ。それを考慮すれば、東亜協会もまた満鉄を背景にして設立されたと見なすこともできよう。そしてそうした『北支那総覧』のようなレポートが出版社へと持ちこまれ、所謂「時局出版書」として刊行されていく。それらを本連載で南進論文献に見てきたが、大東亜共栄圏拡大によって、支那にも広く及んでいったのである。

 『北支那総覧』の奥付裏の広告ページには「驚異的売行の時局出版書!」として、本連載678の室伏高信『謎の国・支那の全貌』、同579の後藤朝太郎『支那の男と女』『不老長生の秘訣』、海老名靖『情炎の支那』などが並んでいる。これらは支那事変を背景とするベストセラーの一角を占めていたことになろう。
支那の男と女


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