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古本夜話719 蒙古善隣協会と西北研究所

 前々回の小川晴暘の『大同の石仏』に、蒙古旅行に関して善隣協会や京都の東方文化研究所への謝意があることにふれた。だが前回の『蒙古高原横断記』においては、その探検が小川に先駆ける昭和六年と十年だったので、蒙古の張家口から出発しているにもかかわらず、その領事の名前は出てくるけれど、両者への言及は見えていない。それは蒙古への善隣協会の進出が満州事変以後だったこと、及びこの探検が東亜考古学会プロパーのプロジェクトであったことを伝えているのだろう。前者に関しては昭和六年の「シリンゴル紀行」から帰った翌日、「あの満洲事変の号外を手にしたのは!」と書かれているからだ。

f:id:OdaMitsuo:20171011115622j:plain:h120(朝日新聞社版)

 かつて拙稿「郷土会、地理学、社会学」(『古本探究3』所収)で、社会学者の田辺寿利を取り上げた際に、あえてふれなかったが、昭和十四年に蒙彊連合委員会の要請に応じ、田辺が張家口の蒙彊学院の副院長に就任していたことを知った。それについて、田辺が一生の不覚だったという意味のことを述べていたことも。これを補足しておくと、昭和十二年に支那事変が始まり、日本軍が内蒙古を占領し、蒙彊連合委員会が設立され、十四年に張家口に徳王を主席とする蒙古連合自治政府が結成されている。

古本探究3

 それゆえに同時代の張家口には蒙彊学院の他にも、いくつもの学校や研究所などが設置されていて、そうした昭和十年代後半の蒙古の動向については、大東亜省と連携していたと考えられる。『日本近現代史辞典』にその立項が見つかるので、それを引いてみる。

 大東亜省 だいとうあしょう (1942.11.1~1945.8.25.昭和17~20)太平洋戦争の進展に伴い東条英機内閣時に新設された官庁。内地、朝鮮、台湾および樺太を除くアジアの地域に関する純外交を除く諸般の政務を施行し、同地域内の日本の商事、在留日本人に関する事務ならびに同地域にかかわる移植民、海外拓殖事業、文化事業を管理した。また対満事務局、興亜院の業務を総括し、関東局、南洋庁に関する事務も統理した。陸海軍に協力するため同地域内占領地行政に関する事務も扱った。このため外務省の権限は半減し、拓務相は廃止された。機構は総務、満洲事務、支那事務、南方事務の4局。(後略)

 おそらくこのような大東亜局の新設とパラレルに蒙古連合自治政府の首都である張家口の西北研究所も設立されたと見なせよう。そこに東京の財団法人善隣協会から分かれた蒙古善隣協会も置かれ、その資金は大東亜省からだされていたようだ。

 梅棹忠夫の『回想のモンゴル』(中公文庫)によれば、この蒙古善隣協会に調査部があった。それが改組され、「純粋なアカデミックな研究所として、中国の西北地区すなわちモンゴル以西の内陸アジアの本格的研究をはじめよう」として、西北研究所が設立された。所長として今西錦司、次長として石田英一郎就任とのことで、梅棹は今西に頼んで入所した。海野弘は『陰謀と幻想の大アジア』(平凡社)の「モンゴル」の章で、この梅棹の証言にふれ、昭和十九年時点で、モンゴルに「純粋なアカデミックな研究所」をつくったと本気で思っているのかと批判している。また『回想のモンゴル』における当時のモンゴルの政治状況と日本の関係についてまったく無関心であることは、江上波夫と同じだとも記している。

回想のモンゴル 陰謀と幻想の大アジア

 それは今西錦司も同様であろう。本田靖春の『評伝今西錦司』(岩波現代文庫)にも「西北研究所」の一章が設けられ、そのバックヤードについて様々に言及している。以前は東方文化研究所員であり、西北研究所の主任を務め、後に敦煌学の権威となる藤枝晃の善隣協会の証言が引かれている。藤枝によれば、それは新京から始まり、「つまり関東軍の一歩先に出ていって、民間に入り込むという謀略団体」だった。それを受けて本多は、善隣協会が近隣諸民族との融和親善を図り、相互文化の向上に寄与することを目的にうたい、昭和九年に発足したと述べ、続けて大東亜共栄圏構想に寄り添い、西北研究所設立も「西北」中国にも勢力を伸ばしたいという野望がこめられていたと指摘している。ちなみに本連載577の回教圏研究所も善隣協会に属していたことは、「回教圏」もまた大東亜共栄圏構想に含まれていたことを物語っていよう。また石田英一郎にしても、大東亜省下にある興亜民族生活科学研究所からの転身だった。

評伝今西錦司

 それに蒙古善隣協会の場合、イスラム教徒のための回民女塾という女学校、卒業生をスパイとして潜入させる興亜義塾をも運営しえいた。後者の出身者がやはり中公文庫の『チベット潜行十年』の木村肥佐生、『秘境西域八年の潜行』(上中下)の西川一三であることも付記しておこう。また同じく中公文庫には、夫の法社会学者磯野誠一とともに西北研究所に在籍していた磯野富士子の『冬のモンゴル』も入っている。彼女は梅棹に先んじて同書を上梓し、梅棹の回想を異化するように、当時の自治政府と日本軍野関係も含めた実態を証言している。後になって『モンゴル革命』(中公新書)を著し、モンゴルの民間伝承を集めたモスタールトの『オルドス口碑集』(平凡社東洋文庫)やラティモアの『モンゴル』(岩波書店)を翻訳することになる。

チベット潜行十年 秘境西域八年の潜行 冬のモンゴル オルドス口碑集  f:id:OdaMitsuo:20171014174349j:plain:h113

 そして戦後を迎え、西北研究所やモンゴル研究の関係者たちがいた外務省管轄の東方文化研究所は、文部省に移管された後、京都大学に併合され、人文科学研究所へと移行する。そのかたわらで、今西錦司、梅棹忠夫、中尾佐助、藤枝晃なども京都大学へと戻り、西北研究所の成果として、今西は『遊牧論そのほか』(平凡社ライブラリー)、梅棹は『文明の生態史観』(中公文庫)、中尾は『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書)を著していくことになる。それゆえに西北研究所と蒙古=モンゴルは、それらの前史を形成していると見なせよう。
遊牧論そのほか 文明の生態史観  栽培植物と農耕の起源 


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