出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話724 柳田泉『成吉思汗平話 壮年のテムヂン』

 柳田泉が昭和十七年に大観堂から、『成吉思汗平話 壮年のテムヂン』なる一冊を上梓している。前々回の尾崎士郎『成吉思汗』の刊行は同十五年だから、時代背景はもちろんのことだが、おそらく尾崎の作品に刺激を受け、共感を得て書かれたのではないだろうか。それは次のような「まえがき」に当たる一文に表出しているように思える。

成吉思汗(外函)

 著者が申し上げます―
 大陸の『真書太閤記』といった意味で、英雄チンギス汗の伝記をそのまゝ物風のものにしたら、可成り面白いものが出来るにちがひない、さういふことはこゝ数年このかた、度々頭の中で考へ考へしてゐたことでもあります。これはわたし自身、チンギス汗に大きな興味を感じて、十年もその余も前から彼の伝記や諸家の蒙古史や彼に関係ある雑誌をあさつてゐたところから、自然にわたしの頭に浮かんできたことであります(後略)。

 そして柳田はそれらの具体的な書名として、小林氏の『蒙古の秘史』、外務省調査局訳『蒙古社会制度史』、『秘史』、那珂博士『成吉思汗実録』、屠寄(号敬山)『蒙兀児(もんごる)史記』などを挙げ、『成吉思汗平話』が「大体は『実録』と『蒙兀児史記』によったもの」だと断っている。

 これらの文献に注釈を加えてみる。『秘史』とはモンゴル語原典からの中国明朝の史官による漢字音訳本『元朝秘史』をさしているが、モンゴル本土においては元帝国崩壊後の政治的混乱と戦争の狭間で消失してしまったという。この『元朝秘史』を日本語に翻訳したのが那珂通世の『成吉思汗実録』で、その翻訳は日本における「モンゴル学事始」にふさわしい典雅優麗な古文をもってなされ、明治四十年に大日本図書、昭和十八年には新版が筑摩書房から出されている。現在は『元朝秘史』は小澤重男の岩波文庫版でも読むことができる。

元朝秘史

 小林氏とは東洋史学者の小林高四郎のことで、やはり『元朝秘史』の翻訳『蒙古の秘史』は昭和十六年に生活社からの刊行である。また『蒙古社会制度史』はロシア人モンゴル研究者ウラディーミルツォフによるもので、これは十八世紀までのモンゴル社会史に関する画期的な研究とされ、同じく十六年に生活社から出版されている。

 ちなみに尾崎士郎や柳田の小説と同様に、これらのモンゴル文献の復刊も含めた出版は、いずれも昭和十年代後半になされていて、日本の北進論と大東亜共栄圏幻想、それに成吉思汗による中央アジアの征服が重なるイメージとして提出されていることになろう。ただ屠寄の『蒙兀児史記』は翻訳されていないと思われる。

 つまり柳田がこれらのモンゴル文献を最初に挙げているのは、自らの成吉思汗像が小谷部全一郎の源義経を成吉思汗とする偽史に基づくものではなく、正史に則ったものであることを伝えようとしているからだ。それゆえに那珂の『成吉思汗実録』が筆頭に置かれたと考えられる。しかしその新版が筑摩書房の刊行だと初めて教えられたので、『筑摩書房図書総目録1940-1990筑摩書房』で確認してみると、確かに創業間もない戦前に出されている。だがこれは筑摩書房の書籍として異色であり、出版には何らかの事情が秘められていると推測するしかない。


 そればかりでなく、この『同目録』を見ていくと、戦後の昭和三十六年の『世界ノンフィクション全集』22には、山口修訳『ジンギスカン実録』が収録されていたのである。これも『元朝秘史』の翻訳で、その「まえがき」には那珂の名訳のタイトルに従い、小林訳のやさしい苦心の訳業を継承した新訳だとの文言が付されている。山口のプロフイル紹介はないけれど、戦後のモンゴル研究者と考えられ、その訳文は次のように始まっている。
f:id:OdaMitsuo:20171103120758j:plain:h115

 上天より命をうけて生まれたる蒼い狼[ブルテ・チノ]があった。その妻なる色白の鹿[コア・マラル]があった。テンギス(大きな湖)を渡って来た。
オノン川の源ブルカン山に住みついて、(そこに)生まれたバタチカンがあった。

 まさに那珂が『元朝秘史』を「蒙古の古事記」と命名したエピソードを彷彿とさせる記述に他ならない。残念ながら、那珂の『成吉思汗実録』も小林の『蒙古の秘史』も未見であるけれど、ここから井上靖の『蒼き狼』(新潮文庫)のタイトルが引かれているとわかる。そして戦前には想像する以上に、『成吉思汗実録』『蒙古の秘史』が読まれ、本連載718の東亜考古学会、同719の西北研究所などによった人々の、蒙古と成吉思汗幻想を駆り立てたにちがいない。それは司馬遼太郎もしかりだろう。
蒼き狼

 さてその後の『元朝秘史』のことだが、昭和四十五年に平凡社の東洋文庫から村上正二を訳注者として、『モンゴル秘史』全三巻が刊行に至っている。サブタイトルには「チンギス・カン物語」とあり、私が所持するのは平成一年第十一刷とされているので、明治四十年の那珂訳以来、八十年以上のロングセラーとなっていることを教示してくれる。村上の「はしがき」は『元朝秘史』がたどってきたロシア、ドイツ、フランスの翻訳と研究史、それらを継承した欧米の研究をあとづけ、長きにわたって元朝秘史学がモンゴルだけでなく、アルタイ学における頂点に位置することを簡略に伝えている。
モンゴル秘史


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら