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古本夜話725 ドーソン、田中萃一郎訳『蒙古史』とドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』

 前回、成吉思汗に関する基礎文献に言及したけれど、どうしてなのか、柳田泉も挙げていなかったモンゴル書があるので、それにもふれてみたい。それはドーソンの『蒙古史』上下で、明治四十二年に田中萃一郎訳として刊行され、前回の那珂通世『成吉思汗実録』と相並んで、日本のモンゴル史研究のための必携の文献とされている。この『蒙古史』は訳者の田中没後の昭和八年に三田史学会から再刊され、十一年から十三年にかけては上下巻の普及版として岩波文庫収録に至り、戦後も版を重ねている。

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 ドーソンはアルメニア系のスウェーデンの外交官で、トルコに長く駐留し、トルコ、ペルシア、アラビアなどの東方語に精通し、これらの古文献を研究し、『蒙古史』(Histoire des Mongols)を著したとされる。同書の第一巻は一八二四年にパリで出され、三四年にアムステルダムで増補改訂全四巻が刊行、五二年に再版が出た。

Histoire des Mongols

 この再版によって、『蒙古史』を訳した田中は、岩波文庫版の松本信弘の「跋」によれば、次のような人物である。明治六年伊豆国函南村生まれ、二十五年に慶應義塾大学を卒業し、母校で歴史の教鞭をとり、三十八年義塾留学生として英独に遊び、史学、政治学を専攻し、四十年に帰朝し、政治科、文学科においてその薀蓄を傾けた。この間に『蒙古史』は翻訳され、上巻が刊行されたが、当時の出版事情もあり、下巻は長く篋底に秘められていた。四十三年には大学に史学科を開設し、大正八年には法学博士に推薦されたが、同十二年に脳溢血のため、享年五十有一で急逝してしまった。そして昭和八年に同僚門人相集って遺稿出版として『蒙古史』上下巻合冊を刊行した。さらに小泉信三塾長の尽力により、岩波文庫に収録されたのである。

 この田中の翻訳も格調が高く、その「序」は「篤学の士に向ては故那珂博士訳成吉思汗実録によりて之を補はんことを望まずんばあらず」と見えているので、那珂訳を範と仰ぎ、翻訳したことになろう。それをうかがわせている「原序」の冒頭を示してみる。

 亜細亜の大半と欧羅巴東方の諸国とは、第十三世紀に於てタルタリーの民によりれ征服され蹂躙されたり。この時に当りてや従来相反目せる幾多遊牧の民は同一軍旗の下に集まり、恰も江河の決するが如く傍近の諸国に入寇して掠奪を縦にし、淋溜たる鮮血を以て之を蔽ひ、惨憺たる廃墟をその跡に残せり。獰猛にして且争闘をこととせる這般遊牧の民を制御し得たるの人物は、(中略)諸河の発源せる高山地方にありて、一処不在の生活を営める寒族の首領たるに過ぎざりき。この首領はその名を鉄木真Témoutchinと云ひ、蒙古諸部の部長が互に覇権を得んとして擾乱止むなく相奮闘せる時に際して、甚く運命の翻弄する処となりしも、遂にその敵手を仆し尽すを得たり。蒙古諸部の部長多くその制令を奉ずるや、鈴木真は次第にタルタリーの部族を従へ、皇帝の位に即きて成吉思汗Tchinguiz Khanと称せり。

そして成吉思汗は支那の地で「巨額の戦利品を鹵獲し」、中央亜細亜はその「法律を奉ずる」こととなり、波斯などは「皆滅亡」状態に直面し、さらにはインド、クリミア、ブルガリアをも「襲へり」とされる。その征服半ばにして、成吉思汗は「世界経略」を遺言し、死に至る。それからついにモンゴル帝国の出現を見る。

 成吉思汗の後二三代にして、蒙古人は裏海、カウカサス山脈、扜に黒海の北に位せる地方にその居を定め、露国を劫掠して二世紀間桎梏の下に呻吟せしめ、波蘭、匃牙利を蹂躙し、チグリス河犴にエウフラテス河々畔アルメニア、グルジア、小亜細亜を征服し、バグダードのハリフハ朝を朴し支那全部西蔵は勿論、印度の一部をも占領して恒河の彼岸に達し、成吉思汗の死後半世紀ならずして遺言は遂に果され、その子孫は殆んどアジアの全部に君臨するに至れり。

 先の引用にある「遊牧の民」が「傍近の諸国に入寇して掠奪を縦にし、淋溜たる鮮血を以て之を蔽ひ、惨憺たる廃墟をその跡に残せり」は、ドーソンによる蒙古に対するオリエンタリズム的視座に基づくし、後の引用以下はその成吉思汗によるアジア征服の完成譚とも見なすことができる。これは侵略された東欧の側から見た「遊牧の民」によるモンゴル帝国の隆盛を描き、西欧における成吉思汗と遊牧民族のイメージを確立する文献として読まれたと想像するに難くない。

 またもう一つ想起されるのはG・ドゥルーズ/F・ガタリの『千のプラトー』(宇野邦一他訳、河出書房新社、平成六年)である。その12は「一二二七年―遊牧論あるいは戦争機械」と題され、まずエルミタージュ美術館収蔵の「木だけでできた遊牧民の戦車」の素描が置かれている。それから「戦争機械は国家装置の外部に存在する」し、「この外部性は、まず、神話、叙事詩、演劇、そしてゲームによって確証される」という「公理」と「命題」が出され、続けて「戦争機械は遊牧民の発明である」ことの証明として、チンギス・ハーンの「血統を数的に組織する」こと、及び彼自身のための「盟友団」の構成を挙げている。

千のプラトー

 その「注」に出典として、前回もふれたウラジーミルツォフの『蒙古社会制度史』からとされているが、それに類する記述はドーソンの『蒙古史』でもなされている。『千のプラトー』にドーソンと『蒙古史』は引かれていないけれど、12の章の成立に当たって、不可欠の文献のように思えるし、ダイレクトでないにしても、密接にリンクしていることは間違いないだろう。「遊牧民」や「戦争機械」と並んで、『千のプラトー』の重要なタームである「脱領土化―再領土化」にしても、『蒙古史』に描かれた「高山地方にありて、一処不在の生活を営める」成吉思汗の表象に他ならないからだ。

 さてその後のドーソン『蒙古史』だが、これも昭和四十三年から佐口透訳『モンゴル帝国史』全六巻として、平凡社の東洋文庫に収録に至っている。ちなみに手元にある第一巻は昭和六十二年第十四刷になっていて、やはり前回の東洋文庫版、『モンゴル秘史』と同様にロングセラーであり、戦後におけるモンゴルへの絶えざる注視を物語っているようで、それは大相撲におけるモンゴル出身力士たちの存在へとつながっているようにも思われる。

モンゴル帝国史(『モンゴル帝国史』) モンゴル秘史(『モンゴル秘史』)


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