前回のドーソン、田中萃一郎訳『蒙古史』と同様に、本連載724で柳田泉も挙げていなかったけれど、やはり昭和十五年に冨山房から内田吟風の『古代の蒙古』が刊行されている。それは「支那歴史地理叢書」の第五篇としてで、「同叢書」は巻末広告によれば、既刊五冊の他に、近刊続刊として二十五冊が並んでいる。そのうち確認できた既刊分をリストアップしてみる。
第一篇 | 水野清一 | 『雲岡石窟とその時代』 |
第二篇 | 外山軍治 | 『岳飛と泰檜』 |
第三篇 | 北山康夫 | 『北支那の戦争地理』 |
第四篇 | 宮崎市定 | 『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』 |
第五篇 | 内田吟風 | 『古代の蒙古』 |
第六篇 | 鶯 淵一 | 『奉天と遼陽』 |
第七篇 | 曽我部静雄 | 『開封と杭州』 |
第八篇 | 宮川尚志 | 『諸葛孔明』 |
第九篇 | 村田治郎 | 『支那の佛塔』 |
第十篇 | 愛宕松男 | 『忽必烈汗』 |
第十一篇 | 佐伯 富 | 『王安石』 |
第十二篇 | 村上嘉実 | 『陶淵明』 |
(『王安石』)
モンゴル関連書は第五篇の内田、第十篇の愛宕の他に、続刊として四冊予告され、昭和十年代後半の蒙古出版ブームの一端をうかがわせている。それは内田が「まへがき」で、「近事飛躍的進歩をなしつゝある蒙古史学研究」と述べていることにも示されていよう。
内田吟風の名前は平凡社の東洋文庫の『騎馬民族史』1の「匃奴伝」や「蠕蠕・芮芮伝」の訳者として見ていたし、「例言」にある恩師羽田亨と第一篇の水野清一への謝辞が、「京都帝国大学東洋史研究室にて」したためていることから、内田が京大の東洋史学者だとわかる。
それもそのはずで、この「支那歴史地理叢書」自体が京大総長だった羽田の監修と銘打たれ、「支那歴史地理叢書の刊行に就いて」も彼の名前で出されているのである。それは蒙古出版ブームだけでなく、本連載でもたどってきたように、昭和十年代の「東亜」を広く収めた出版動向を示唆している。
支那事変の勃発以来、我が国に於て支那に関する著述の急激に増加したのは、現下邦人の知識欲の向ふ所をそのまゝに反映するものに外ならぬ。実をいへば、従来支那や東亜に関して一般人の知る所は、甚だ人弱の域を免れなかつた。これは近時の我が国民が、すべてに於て隆々たる欧米の勢力に憧憬し、一図に欧米主義に走ると共に、衰運に沈淪した東方諸国を顧念するものゝ少かつた結果であつて、これが我国今日の発展を承知する上に寄与するところ多かつたとはいへ、一方余りに邇きを忘れた笑止の沙汰であつたといはねばならぬ。今次の事変によつて、東亜新秩序建設の大任が突如として国民の上に課せられると、政治に経済に社会に民族に、凡そ東亜に関する知識の欠如を痛感し、争うてこれが探究に勉めることになり、従つて関係著述の盛行を見ることになつたのであつて、立後れの詬は免れないにしても、尚且つ大いに喜べき現象である。
しかしこれまでの支那に関する書物は専門的であり、時局下において、京都帝大研究室関係者の間から、「支那を知るに就いての基礎的要件としての歴史的読物を編述する要あり」との判断が下され、「支那歴史地理叢書」の編纂が企画されることになった。それもあって、内田が「例言」に「同叢書」刊行の主旨に則り、「一般読書人士の蒙古に対する史的認識の一助に資すべく、蒙古有史の最初より、匈奴帝国崩壊に至る、約十七、八世紀間に於ける民族の興亡、文化の盛衰を叙べた」と書いたことになる。つまりいってみれば、「支那歴史地理叢書」は支那事変を受けての支那や蒙古に関する啓蒙書シリーズだったのである。
それならば、従来の専門的書物とは何かということになるのだが、実はその後本連載718でふれた水野清一の『東亜考古学の発達』を入手することができた。これは戦後の昭和二十三年の刊行で、京都の大八洲出版の、日本を主とする「古文化叢刊」の一冊であるけれど、「支那歴史地理叢書」の判型、並製、シリーズも同じで、しかも歴史啓蒙書的色彩も共通している。著者として重なっているのは水野と、続刊に名前が挙がっている梅原末治だけだが、企画編集のほうはつながっているかもしれない。
(「古文化叢刊」18、『梵鐘と古文化』)
それはともかく、水野はその「序」で、「本篇はもと平凡社の『東洋歴史大辞典』のために書いたもの」で、それを書き改めたと述べている。そこで、羽田が支那に関する専門書、及び支那事変後の著述の増加の象徴としているのは、この『東洋歴史大辞典』の出現を見てのことだったのではないかとの連想が浮かんだ。次回はそのことを書いてみる。
[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら