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古本夜話728 創元社「アジア問題講座」

 前回、戦後の出版ではあるけれど、東京創元社の京都大学文学部東洋史研究室編『東洋史辞典』は、平凡社の『東洋歴史大辞典』の延長線上に成立したという推測を述べておいた。それはこれも既述しておいたように、『東洋歴史大辞典』の主たる執筆者たちは東京と京都帝大の東洋史研究者たちだったからだ。

東洋史辞典(『新編東洋史辞典』) 東洋歴史大辞典(『東洋歴史大辞典』)

 さらに『東洋史辞典』の成立にはもう一つの系譜も接続していて、それは創元社の「アジア問題講座」である。書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』で確認してみると、昭和十四年、つまり『東洋歴史大辞典』の完結年にスタートし、全十二巻が出されている。手元にあるのはそのうちの9と12で、前者は「社会・習俗篇」、後者は「アジア人名辞典、総合アジア年表」となっている。

f:id:OdaMitsuo:20171107111726p:plain:h120(経済産業篇) 全集叢書総覧新訂版

 こちらは平凡社の『東洋歴史大辞典』と異なり、B6判並製だが、共通している部分がある。それは奥付の編輯兼発行人が創元社の経営者の矢部良策とされていることだ。しかも検印紙の代わりに「矢部之印」が押されていることは、『東洋歴史大辞典』の検印紙に「平凡社印」があることを踏襲していると見なすしかない。ちなみにこのような奥付処理の意味するところを説明しておけば、いずれも収録原稿は買切で、印税は発生せず、著作権は出版社と発行者に属することだ。そうした共通項からしても、『同辞典』「アジア問題講座」は執筆者のみならず、企画編集者もクロスしていたと考えらえる。

 またこの時代は、本連載284や457でふれておいたように、創元社は大阪を本社とし、東京を支店として出版を行なっていた。その奥付の住所記載からすれば、「同講座」は東京支店による企画編集だとわかる。だがその経緯と事情、及び全容はつかんでいないので、先の二冊から見ていくしかない。

 9の「社会・習俗篇」には編集顧問として、柳田国男、宮澤俊義、橘樸などの十人、編輯委員として、尾崎秀樹、小澤正元、田中香苗、木村重、木下半治、水野成夫の六人が挙がっている。冒頭に「アジアに寄する言葉」という一文を書いているのは編輯顧問の宮澤で、彼は憲法学者であり、当時は東京帝大教授だったはずだ。彼はこの一文を次のように始めている。

 ひとむかし前に神戸からヨオロッパ行の船に乗つたことがある。まづ、上海、香港、ついでシンガポール、ペナン、子ロンゴ、アデン、さらにスエズからポート・サイドと、着く港湾で何がいちばん目についたかといふと、どこでも土着の有色人種が白人の支配権の下に情ない隷属状態に置かれてゐるということであつた。
 支那では日本人と同じやうに黄色い顔をした人間が白人から「犬と支那人入るべからず」式の待遇を受けていたし、マレイ半島では僕自身にそつくりの色の黒い連中が、ヘルメット帽をかぶり自服を着たジヨン・ブルの頤使にあまんじてゐたし、さらにインドでは、見るからに聡明そうな目をもつた土人が数千年前にあの輝しい文化を創造した国民の後裔とはとても考へられぬやうな卑屈な生活を営んでゐた。いったいどうしたことだとかつ慨嘆し、かつ考えたことであつた。

 そしてこうした白人の支配下にあるアジアを解放するためには、白人の政治権力だけでなく、その文化にも対抗できるものを確立しなければならないし、それが「世界史においてアジア人に課せられた光栄ある使命」だと結ばれている。

 編輯委員の尾崎秀実のポジションは朝日新聞社を退社し、満鉄東京支社へ移り、東亜協同体論を提起していた時代に当たる。すでに上海で、アグネス・ススメドレーに出会い、ゾルゲを紹介され、日本で再会していた。また同じく小澤正元、木下半治、水野成夫は東大新人会出身で、転向左翼であり、田中香苗は尾崎が上海で近傍にいた東亜同文書院出身のジャーナリストで、木村重は肩書に「在上海農学博士」とある。さらに付け加えれば、小澤は本連載635などの内外社を大宅壮一と立ち上げ、『綜合ヂャーナリズム講座』の編輯に携わっていたことからすれば、この「アジア問題講座」の企画編集者の一人だとも考えられる。それもあって、9は大学教授ばかりでなく、柳田を通じて民俗学者などの、「社会・習俗篇」にふさわしい多彩な人々の寄稿が得られたのであろう。

 しかし「アジア問題講座」の全巻を見ていないにもかかわらず、断言してしまうのは僭越だが、その圧巻は「アジア人名辞典」を収録した12に他ならないと思われる。尾崎監修によるこの人名辞典は中華民国、満洲国、印度、フイリッピン、タイ国に及び、四一〇ページ、概算で三千人以上が掲載されている。満洲国は四六ページ、三百人ほどだが、アトランダムにその中の一人を抽出してみる。

 孫 徴 Sun Cheng 日本大学政治学科卒業。一九三二年満洲国成立後任実業部工商局長。次で満洲電業会社副社長となる。一九三六年日本人と結婚す。

 この人物のことはここで初めて知るのだが、日本の敗戦後、どのような運命をたどったのだろうかと想像してしまう。このような人名辞典に掲載されたことが裏目に出てしまったのではないかということに対しても。
 「凡例」によれば、満洲国と中華民国関係の辞典としては外務省編纂、東亜同文会発行『人名鑑』が七千名を収録した「最も権威あるもの」とされているようだ。これを編纂したのは誰だったのであろうか。


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