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古本夜話733 博文館「最新世界紀行叢書」とベヒトールト『ヒマラヤに挑戦して』

 本田靖春の『評伝今西錦司』が『山と渓谷』に連載されたことを象徴するように、同書は今西の京都一中と三高での山岳部体験から始められている。そして大興西嶺探検に加わる梅棹忠夫、吉良龍夫、川喜田二郎たちも三高山岳部に属し、当然のことながら全員が京大へ進み、やはり山岳部へ入る。当時は山岳部も草創期で、指導者や先輩もおらず、本連載225の小島烏水『日本アルプス』や雑誌『山岳』などのバックナンバーを手引書代わりにして、三高山岳部も発足したという。
『評伝今西錦司

 ちなみに今西は大正十年に三高に入学するが、それはイギリスがエベレストをめざし、最初の山岳隊を送った年であり、今西編『ヒマラヤへの道―京都大学学士山岳会の五十年』(中央公論社)のタイトルにも示されているように、日本のアルピニストの目標もエベレストやヒマラヤへと向かっていった。そうした動向とパラレルに、昭和に入って、山岳書や探検書の出版も盛んになっていったと思われる。日本の山岳ジャーナリズムの開拓者とされる川崎吉蔵が山と渓谷社を創業し、『山と渓谷』を創刊したのも昭和五年のことだった。

 その山と渓谷社の刊行ではないけれど、たまたまそれらの本を二冊入手しているので、ここで書いておきたい。一冊は『西蔵を越えて聖峯へ』で、これは博文館の「最新世界紀行叢書」として、昭和六年の刊行である。その巻頭には「最新世界紀行叢書の刊行趣旨」が掲載され、本叢書は「何れも権威ある世界のチャンピオンが自ら目的地に足を運んで自ら書き、死を賭し血肉を以て購つた記録、それも特に新しい記録」からなり、「新現実への展望、新現実の獲得」が謳われ、次のように続いている。

 今や紀行文学が―登山文学、狩猟文学、飛行文学、航海文学、探検文学、冒険文学、それが何と呼ばれるとも、総括した意味での体験記録、旅行記文学が世界的傾向として将来せんとする文学に、嶄然新分野を開拓しつゝある時にあたり、率先して本叢書を刊行することは最も意義ありと信じるものである。

 大木篤夫は「訳者のはしがき」において、「登山家の野心は、アルプスを去つてヒマラヤに向かつたと言はれる」と始め、著者のノエルが陸軍大尉で、エヴェレストに対し四回の登攀経験を有し、二回は映画撮影技師としての傘下で、映画作品『エヴエレス史詩』を撮っているとの説明もある。それを裏づけるように、映画の一場面とも考えられるチベット服をまとったノエルとエベレストの口絵写真が収録されている。

 『博文館五十年史』で「最新世界紀行叢書」を確認してみると、これは全六巻で、すべてが大木篤夫訳とされている。彼は大正時代に博文館に在籍していたことから、この企画を持ちこんだと思われる。ちなみに全六巻のラインナップも挙げておく。

 1 A・E・リリアス 『南支那海の彩帆隊―南支那海賊船同乗航海記』
 2 J・B・L・ノエル『西蔵を越えて聖峯へ―エヴエレスト冒険登攀記』
 3 A・L・ストロング『サマルカンドの赤い星―中央亜細亜黎明紀行』
 4 W・L・パツクスリ『マヤの魔術国―中央亜米利加原始境風物記』
 5 W・B・シーブルツク『千夜一夜の国へ―亜剌比亜内地猟奇紀行』
 6 C・ウエルズ『赤道直下の寒帯―亜弗利加ムーン山探検記』  

 さてもう一冊のフリッツ・ベヒトールト、小池新二訳『ヒマラヤに挑戦して―ナンガ・パルバット登攀』は、昭和十五年に河出書房から刊行されている。『西蔵を越えて聖峯へ』の著者が英国人で、B6判だったことに対し、こちらはドイツ人で、菊判だが共通しているのはいずれもエベレストのヒマラヤをめざしたこと、及び多くの写真を収録していることである。それはやはり映画を彷彿とさせるが、訳者の「跋」によれば、このドイツのヒマラヤ探検も映画化され、小池の希望に応じ、東和商事によって招来され、『ヒマラヤに挑戦して』というタイトルで上映されたようだ。

 この一九三四年の「ナンガ・パルバット登攀」はドイツ国体育部と国鉄の全面的バックのもとに、ヒマラヤの最高峯のひとつを征服し、八千メートルの山嶺にドイツ国旗を掲げようとする寸前に、山の恐るべき荒天は、四人のドイツ人と六人の現地雇いの人夫を失わせてしまったのである。著者のベヒトールトはその隊員の一人で、日記をベースにして、その事件も含んだ記録を刊行したことになる。

 記者の小池はそれらを著者から贈られ、そこでの「第一の問題は、『如何に登つたか』であつて、『何処まで登つたか』ではない」ことを認識し、これがドイツ人の「隊員たちの優秀な素質」に基づく「近来の代表的登山の一つ」と見なすに至った。おそらくそれが小池による翻訳モチーフだったと考えられる。

 小池新二は『現代日本朝日人物事典』によれば、東京帝大美学美術史科卒後、商工省工芸指導所所員、大東亜省嘱託などを歴任し、昭和十一年には前川國男たちと日本工作文化連盟を結成し、デザインや建築の面からの国策協力を推進したとされる。また『汎美計画』は日本の芸術、デザインの範としてのナチスの例を詳細に紹介。戦後は千葉大学工学部教授、後に九州芸術工科大初代学長。それらに加えて、小池は隠れたる登山家、アルピニストだったのかもしれない。おそらく今西錦司たちも、これらを熟読していたと判断してもかまわないだろう。

[現代日本]朝日人物事典


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