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古本夜話618 日比野士朗『呉淞クリーク』と杉森久英『大政翼賛会前後』

前々回、『猶太人ジユス』を取り上げたこともあり、同じく中央公論社の小説、それに関連する何編かをはさんでおきたい。それは昨年の十月上旬に刊行した北村正之、河津一哉『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(「出版人に聞く」シリーズ20、論創社)に関連して、大政翼賛会を調べ、本連載593でもその前身ともいえる昭和研究会についても書いたからだ。
 「暮しの手帖」と花森安治の素顔

昭和十四年に中央公論社から刊行された日比野士朗の『呉淞クリーク』 という一冊がある。これは同十二年の支那事変における上海作戦に加わった体験をベースとする四編からなる連作集で、その中心を占めるタイトルと同じ中編「呉淞クリーク」は、集英社の『昭和戦争文学全集』の第二巻『中国への進撃』(昭和三十九年)にも収録されている。その編集委員の橋川文三が編んだ巻末の「年表」には、「9・25/第一〇一師団呉淞クリーク先頭に参加。10・6/呉淞クリーク強行渡河成功(津田部隊第三大隊。10・11/加納部隊長(一〇一師団所属戦死。)」とある。まさにこの戦闘を「呉淞クリーク」は作品化したことになる。なお注釈を加えておくと、「呉淞(ウースン)」は上海近郊の地名で、「クリーク」とは英語のcreekを意味し、中国の平野部などの多い排水、灌漑、交通を目的とした小運河をさす。

呉淞クリーク/野戦病院 (中公文庫) (中公文庫) 中国への進撃

B6判並製二八六ページの中央公論社版『呉淞クリーク』を購入した理由は、その斬新な装丁に少しばかり魅せられたからだ。表紙の一番上の部分に横書きタイトルが置かれ、左端に突撃するかのような兵士の姿、その下の部分には背の低い茂みが描かれ、その間は広く空白となっていた。装丁、装画は誰かと思い、見てみると鳥海青児とあった。二人の関係は定かでなないが、日比野は「後書」で鳥海を「畏兄」と呼んでいて、さらにそこには中央公論社の青木滋、後の青地晨を通じて上梓に至った経緯も記されていた。また巻末には林芙美子『北岸部隊』や丹羽文雄『還らぬ中隊』などが掲載され、支那事変従軍文学も台頭してきているとわかる。
北岸部隊

日比野は『日本近代文学大事典』に立項が次のように見えていた。明治三十六年東京生れ、八高中退、昭和九年河北新報に入社し、東京支社に勤務中の十二年に支那事変勃発とともに応召。呉淞クリーク渡河戦に従い、負傷して内地送還となり、除隊後、創作集『呉淞クリーク』で池谷信三郎賞を受賞。火野葦平、上田広などとともに「帰還作家」として文名を挙げ、一七年には大政翼賛会文化部副部長となる。
日本近代文学大事典

これによって、先の『中国への進撃』に林の『北岸部隊』のみならず、火野の『麦と兵隊』、上田広の『建設戦記』が揃って収録されている理由を知らされるのである。これらの作品にしても、日比野の『呉淞クリーク』にしても、兵士と従軍者の側から見た戦争の日常を描いた戦記文学と称すべきものだが、火野の『麦と兵隊』とともに戦記文学の範を示したのではないだろうか。

麦と兵隊(改造社版)

その日比野が杉森久英の『大政翼賛会前後』(文藝春秋、後ちくま文庫)の中に出てくる。
大政翼賛会前後(ちくま文庫)

 文化部の副部長の日比野士朗氏とも、私は旧知だった。日比野氏はその数年前「呉淞クリーク」という戦争小説で文壇へ出て、まだ新進作家というところだったが、岸田国士氏が文化部長になったとき、副部長に迎えられたものであった。愛想のいい人で、ときどき廊下で会うと、立ち話をしたが、私と深いつきあいはなかった。

杉森は中央公論社で、日比野と知り合っていたのだろう。そして後にもう一ヵ所、「日比野副部長」の名前を見出せる。それは十七年に文化部長が岸田からドイツ文学者の高橋健二に代わった頃で、同じ副部長として風間道太郎の名前も挙げられていた。風間は高橋や尾崎秀実と一高、東大を通じて同窓であり、彼は戦後になって、『尾崎秀実伝』(法政大学出版局)を刊行している。風間のことはともかく、杉森は興亜局企画部から文化部へ移ったのとほとんど入れ替わるように、日比野は副部長を辞し、その後任は第一書房の『セルパン』の元編集長の福田清人だった。
尾崎秀実伝

しかしそこで大政翼賛会における日比野の姿は消えてしまう。その後の創作集として『梅の宿』(新太陽社)や評論集『戦ふ文化』(豊国社)などがあるようだが、未見であり、戦後は筆を折ったと伝えられている。私にしても『呉淞クリーク』を入手していなければ、文学者を含めて、多くの出版関係者が登場する『大政翼賛会前後』において、このように日比野のことを気にとめることはなかったであろう。杉森以外の著作においても、日比野への言及はなかなか見つからないと思われるので、ここで取り上げてみた。

それはさておき、大政翼賛会だが、これは本連載593で既述したように、近衛文麿のシンクタンク的な昭和研究会をその前身とし、発展解消したものとされるけれど、酒井三郎の昭和研究会のような、実際にその内部にいた人物の詳細な記録は出現しておらず、杉森の著作が残された証言として貴重な存在であり続けている。もっともこの『大政翼賛会前後』というタイトルの「前後」に示されているように、前半が中央公論社、後半が大政翼賛会時代の記録ではあるのだが、そこで教えられたのは青少年読書運動なるものも大政翼賛会の文化事業だったという事実であった。これは本連載595でも少しふれているが、おそらくここに戦後の様々な読書運動やイベントも端を発しているのだろう。

それから大政翼賛会の職員規模は二百人から三百人規模だったとされる。しかし調べてみると、その傘下には実践部隊としての大日本翼賛壮年団、各都道府県支部を通じての町内会や部落会、さらには隣組にまで、その上意下達的なシステムが浸透していた。また大日本産業報国会、農業報国連盟、産業報国会、大日本婦人会、日本海運報国会、大日本青少年団という官製国民運動六団体も傘下組織として統合していたのである。

杉森も書いているように、また『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』でも言及しているように、花森はこのような大政翼賛会において、宣伝部の副部長を務めていた。同様に大政翼賛会に籍を置いていたのは、やはり戦後に『平凡』を創刊することになる岩堀喜之助と清水達夫であった。この三人の他にも、戦後を迎え、大政翼賛会から出版界に入っていった、あるいは戻っていった人たちが多くいたにちがいない。しかし彼らがそこでどのような仕事をしていたのかは、ほとんど明らかにされていない。

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