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古本夜話622 吉川英治『草莽寸心』

本連載586などでふれた六興出版部の戦前の書籍を見つけたので、これも書いておきたい。それは吉川英治の『草莽寸心』で、昭和十九年五月初版、九月再版、部数一万部とあり、発行者はこれも本連載607で言及した小田部諦となっている。

『草莽寸心』は並製、三二九ページのエッセイ集である。それは「伊勢行幸」「故山本元帥の偉霊に誓ふ」「インドネシヤよ」「日本の怒り」という四章仕立てで、四十余のエッセイからなっている。これらにはすべてに年月が記載され、大東亜戦争下に書かれたものだとわかる。しかも装幀は吉川晋、扉・挿絵は著者とあるように、同書は吉川兄弟と六興出版部のコラボレーションによって送り出されたことも伝えている。

六興出版部は文藝春秋社に在籍していた吉川晋たちをブレーンとし、そのことで戦後になって、晋の兄の吉川英治の、戦前は講談社と新潮社に版権があった『宮本武蔵』『新書太閤記』を刊行し、六興出版部(社)の売上に多大な貢献をしたことを既述しておいた。だが『草莽寸心』に明らかなように、その布石はすでに戦前から打たれていたことになる。
[f:id:OdaMitsuo:20161217171846j:image:h110] 新書太閤記

奥付に示された「著者略歴」は「著述業。日本文学報国会理事。海軍々令(ママ)部戦史部嘱託」とある。吉川は、本連載619の林芙美子の『北岸部隊』のところでもふれておいたが、日支事変にも海軍のペン部隊として従軍している。『吉川英治』(「新潮日本文学アルバム」29)には昭和十三年に菊池寛たちと翌月より中国へと出立する写真、中国から帰国し、東京駅で歓迎を受けている写真などが掲載され、また昭和十五年から二十年にかけては「『草莽の臣』として」の軌跡がたどられている。
北岸部隊吉川英治

それは「略歴」に示された海軍軍司令部臨時戦史部食嘱託としての南方戦域一万六千キロに及ぶ視察、日本文学報国会理事への選出、大東亜文学者決戦大会での宣誓朗読などで、このような軌跡とパラレルに『草莽寸心』に収められた一連のエッセイが書かれていたことになる。そのコアを「昭和十七・六」の日付のある「日本のありがたさ」に見てみる。吉川は「ありがたい」という五音の言霊にあらゆる思いをこめ、「今や日本中の大民草は、日々、天に答えてゐる」と書き、次のように続けている。

 大戦争のまつたゞ中に立ちながら、その国が、戦禍といふ通例な実態に曝されぬばかりか、かへつて反対に、日々、よろこびと感涙のなかに孜々として働いてゐられるといふやうな恵まれた国民が、日本をのぞいて、どこの国歌にあるだらうか。
 世界の強国は、今やすべて戦争へ突入してゐる。この世紀的な全地球の動乱をよそにして傍観している強国は一国もない。
 同時にまた、その国なり自国の民衆のうへに、はげしい敵国の爆撃や戦火軍靴の蹂躙をうけてゐない強国もひとつも無い。
 たゞこゝにわが日本がある。

しかし吉川がこれを書く以前の昭和十七年四月のアメリカ軍機による本土初空襲が行なわれていたし、六月に日本軍はミッドウェイ海戦で空母四隻を失い、アメリカ軍はガダルカナル島に上陸し、日本軍戦死者は二万四千名に及び、年末には撤退に至っている。さらに翌年には『草莽寸心』にあるように、山本五十六連合艦隊司令長官も戦死し、アッツ島に象徴される玉砕が起き始めていた。そして十九年にはサイパン島での玉砕、インパール作戦の失敗、レイテ沖海戦における連合艦隊の壊滅、東京大空襲も生じていた。これらが昭和十七年から『草莽寸心』刊行の十九年までに出来していたのである。それらの敗北と玉砕は、他ならぬ吉川が属していた海軍と視察していた南方でのものであり、もちろん大本営発表を信じていたにしても、十九年時点で、前述の「日本のありがたさ」などという一文の収録に躊躇することはなかったのだろうか。それとも大東亜神話の強い呪縛力は、そのような疑念さえももたらさないものだったのだろうか。

吉川が昭和三十年から翌年にかけて、『文藝春秋』に連載した「四半自叙伝」である『忘れ残りの記』(六興出版社、後に講談社文庫)に付した「自筆年譜」の昭和十九年のところには「前年来わずかに随筆、短編数作あるのみ」と記され、『草莽寸心』の刊行への言及はなされていない。おそらくこの一冊は戦後を迎えて、吉川自身にとっても封印されるものと化してしまったのではないだろうか。
忘れ残りの記(講談社文庫)

本連載の目的のひとつは大東亜戦争下において、文学界やアカデミズムばかりか、左翼や出版アンダーグラウンドも含めて、ことごとくが大東亜神話へと収斂していった軌跡をたどることにあるが、それらの多くは封印されてしまった出版物に秘められているのだろう。ベンヤミン風にいうならば、そこに示された「痕跡(シュプーア)」こそは、まだ明かされていない出版物という「想像の共同体」のメカニズム、しかも戦時下で形成されていった共同幻想のプロセスを表出させているようにも思える。

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