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古本夜話623 『明治文化全集』、成島柳北、山田風太郎

日本評論社の出版物で最も印象的なのは『明治文化全集』全二十四巻である。といっても全巻を揃えておらず、昭和二年から五年にかけて出された最初の円本版は第二巻「正史篇」と第六巻「外交篇」の二冊だけで、その他は戦後の昭和三十年に刊行された改版の六冊ということになる。古本屋で見かけるたびに一冊ずつ買い、揃えていくつもりでいたのだが、いつの頃からか出会わなくなってしまい、そのままで放置してしまったことによっている。
明治文化全集(平成4年版)

それでも両者を比べてみると、前者は菊判で、編輯担当代表者が吉野作造、後者はそれよりも少し小さいA5判で、編輯者は明治文化研究会、編輯代表者は木村毅、発行所は日本評論新社だとわかる。それに伴い、発行者も鈴木利貞から岩田元彦に変わっている。美作太郎の『戦前戦中を歩む』には言及がないけれど、『出版人物事典』の鈴木の立項には昭和二十七年に経営上の問題から退陣とあり、それとパラレルに日本評論社が興され、岩田が経営者の地位に就いたのであろう。そしてその再建計画に従い、戦前の日本評論社の誇るべき遺産ともいえる『明治文化全集』の復刊が実行されたと考えられる。
出版人物事典

その第七巻「外国文化論」の中に成島柳北の「航西日乗」が収録されている。これは明治五年柳北が東本願寺管長現如上人(大谷光螢)に従い、ヨーロッパに向かい、主としてパリに四ヵ月滞在した日記である。パリに着いたのは十月三十日で、十一月になると街を歩き始め、次のように日記に書きつけている。

 十一月朔日、日曜、(西暦十二月一日)晴。巴里ノ市街遊歩ス。屋宇道路ノ美麗ナル人ヲ驚愕セシム。

何と柳北はベンヤミンの『パサージュ論』の中のフラヌール(遊歩者)のように、「屋宇道路」=パサージュを「遊歩」し、七言絶句の漢詩をも詠んでいる。そしてセーヌ河の上を歩き、骨董店で多くの古銭を見る。柳北は後に『明治新撰泉譜』を著わすほどの古銭家であり、十四日には「羅馬ノ古銀貨二枚ヲ街上ノ骨董舗ニ獲タル」とも書いている。また「博物園」で「珍禽奇獣」を多く目にし、普仏戦争の「奇幻巧妙ノ観場」ともいうべき「パノラマ」を観て、「歌舞場」にも出かけ、さらには「帰途酔ニ乗ジテ安暮阿須(リウドアンパス)街ノ娼楼ニ遊ブ。亦是レ鴻爪泥ノミ」ともある。もちろんヴェルサイユ宮殿やクリニュー博物館などにもいっているし、しかもその遊歩をともにするのは、本連載333334の長田秋涛の父の長田硑太郎や同513の島地黙雷などだった。

パサージュ論

この「航西日乗」にも述べられているように、同時期に岩倉使節団一行もパリに着いているけれども、同じパサージュが登場しているにしても、『特命全権大使米欧回覧実記』(岩波文庫)に示されたそれは、柳北と同じ「遊歩者」の眼差しによるものではないし、パリの街もまた同様である。ここでの柳北の「遊歩者」のイメージは『柳橋新誌』の著者の遊び心と闊達さを彷彿とさせる。
特命全権大使米欧回覧実記

ところでこの『明治文化全集』所収の「航西日乗」をベースとして、山田風太郎が小説を書いている。それは『明治波濤歌 北の巻』(新潮社)の「巴里に雪のふるごとく」で、それはマルセーユ発パリ行きの汽車の一室に乗りこんだ成島甲子太郎=柳北、川路利良、井上毅のかつての旧幕臣と司法役人という呉越同舟ならぬ同車の場面から始まり、マルセーユの風景を記した「航西日乗」の一説も引かれているのである。そして柳北の「西洋の銭買い」が井上から批難されるが、これはこの物語の伏線で、後に前述したローマの古銭が重要な役目を果たすことになる。また例の娼楼に遊び、「亦是レ鴻爪泥ノミ」と記したことに関し、風太郎は「鴻爪泥とは、泥に残った白鳥の足あと」という意味だと注釈し、前田愛の『成島柳北』(朝日新聞社)における指摘を紹介している。それは軽くかわしているところがうさんくさく、語学力の不足から通人の面目丸つぶれの仕儀となったのではないかというものだ。確かにそれは蓋然性が高く、あり得ることのように思える。
成島柳北

それと同様に筑摩書房の『成島柳北・服部撫俟・栗本鋤雲集』(明治文学全集、昭和四十四年)にも「航西日乗」が収録されているのに、どうして『明治文化全集』なのかという蓋然性にもつながっていく。それは風太郎が物語の展開に小林馨が「航西日乗」などの「解題」に記したエピソードなどを使っているからである。風太郎が明治開花物の最初の作品『警視庁草紙』(文藝春秋)を書き始めるのは昭和四十八年からだが、その基礎資料、文献が『明治文化全集』だったことは間違いないように思われる。
成島柳北・服部撫俟・栗本鋤雲集 警視庁草紙

山田風太郎のエッセイ集『風眼抄』(六興出版)の中に、「ある古本屋」という一文が収録され、戦後になって、担ぎ屋の斎藤古本屋が持ちこんできた平凡社の『大百科事典』から『寛政重修諸家譜』『大武鑑』などの資料類をほとんど買ったと述べているので、おそらくその時に『明治文化全集』も入手していたのではないだろうか。そしてそれが発端となり、風太郎の一連の明治開花物が書かれるに至ったと考えるのはとても楽しいことである。

美作は『戦前戦中を歩む』の中で、『明治文化全集』について、入社した昭和二年から刊行されていたが、当時はその意義をはっきり理解しておらず、戦後になって古本屋で購入したと書いている。それはこれが「半世紀後も渝るところのない書物」、この刊行は「出版人冥利」で、「日本評論社―鈴木利貞の名前は、ただこれ一つでも後世に記憶されてよい」という認識に至ったからだ。そしてその担当者が日本評論社の創立者茅原茂の甥の茅原要三で、万事にわたり吉野作造の指揮を仰いでいたとも記している。彼の名前はここでしか目にしていない。

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