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古本夜話633 大杉栄訳『種の起原』と佐藤義亮

前回の参照資料として、『新潮社四十年』所収の佐藤義亮「出版おもひ出話」を読んでいたら、『社会問題講座』のところに「大杉栄氏へ絶交状」という一章が置かれていた。これもかつて読んでいたはずなので、すっかり忘れていたことになる。

大杉栄は新潮社からダーウィンの『種の起原』の翻訳を出していて、実は浜松の時代舎で最近その大正十三年版のB6判七五五ページの一冊を入手したばかりなのである。年代からして、これは大杉の死後の刊行だとわかる。そこで『新潮社四十年』の「新潮社刊行図書年表」を確認してみたが、見当らず、その代わりに大正四年に評論集『生の闘争』『社会的個人主義』、五年に生田長江との共訳で、ルソーの『懺悔録』が出されていた。
(『種の起原』)

念のために『新潮社七十年』を見てみると、大正三年に『種の起原』の掲載があり、これが新潮文庫の二冊本として刊行されていたのである。『新潮社四十年』未収録は文庫刊行のゆえだったことになる。それは同年に創刊された第一次新潮文庫、まさに「海外名著の必読に価する者のすべてを、一冊わずか二十銭の廉価本として世に頒たんとしたもので、この叢書こそ、現今書肆の店頭にあふれてゐるこの種の廉価本の嚆矢であつた」のだ。この大正三年から四年にかけて出された「第一次新潮文庫四十冊」は、井狩春男『文庫中毒』(ブロンズ新社)などにリストアップされている。
文庫中毒

さてそれらはともかく、先の佐藤の一文に戻らなければならない。佐藤は次のように書いている。

 私は、大正七八年頃から十年にかけて大杉栄氏とよく話をした。氏は可なりひどいどもりだったが、言葉に一種の調子をとりながら、唇辺に落ちつきを見せて話す具合に味があつた。利口な男で、どんなに長くゐても文学の話をするだけで、社会主義に触れようとしなかつた。
 その時分の大杉氏は、内務省から仕事を貰つてゐた。(中略) 
 その仕事は一時杜切れたから、何かやらして呉れといふので、『種の起源(ママ)』の訳をたのんだ。出来たのを見るとなかなか立派な訳である。翻訳については長い間苦しみ抜いて来た私は、いい訳を見ると有難くさへなる。そんなことから、雑誌の原稿も頼んだり、論文集を出したりしたので、自然氏はちよいちよい来るやうになつた。

確かに「ここに種の起原に関する学説発達の略史を述べて置かう。近頃まで大多数の博物学者は斯う信じてゐた。種は不意のもので、且つ各々別々に創造されたものであると。」と始まる大杉訳は、この後もリーダブルにしてリズミカルに続いていき、佐藤がいうように「立派な訳」として受けとめることができる。それが畑違いと見られる新潮社からの出版へと繋がっていったことも納得させられる。ただ佐藤のいう年代は間違いで、大杉の著作や『種の起原』の翻訳からすれば、大正の初めの頃だろう。大逆事件の後でもあり、大杉も出版や翻訳といった仕事の必要性から佐藤へと接近したと思われる。

しかも特筆すべきはこの大杉訳が、明治二十九年の立花銃三郎訳『種源論』に続く二番目のものだったことである。私が入手したのは大正十三年七月発行、同八月六版で、単行本としての復刊後も、よく売れていたことを示していよう。その後の大杉訳の行方を確かめていないけれど、現在では完全版として編まれた、ぱる出版の『大杉栄全集』第九巻に収録されていたことを付記しておこう。
大杉栄全集

ところで佐藤の大杉に関する回想だが、それだけで終わっていない。ある日、郷里の甥が上京し、佐藤の父からの、大杉と絶交するようにとの伝言を携えてきたのである。田舎の有力者から、父は新潮社と大杉の関係のことを尋問され、気を病んでしまったからだ。これは前述した大逆事件絡みの噂が地方にも伝播していたことを告げているのだろう。甥は執拗で、すぐに大杉への絶交状を書くこと、それから大杉の著書を重版しないように、紙型を持って帰ることを要求した。

 いかな専制国でもこんな校閲制度はなからうが、父とは喧嘩も出来ないから、言はれる通りにしたのであつた。
 大杉氏は藪から棒に絶交状を受取つてどんな感じがしたことだらう。そのうち諒解のゆくやうな道もあるだらう、などゝ考へてゐるうちに、あの大震災、そしてあの事件だ。私は、他の人とは別に、ある感じの起るのを禁じ得なかつた。

これは関東大震災時の大杉虐殺をさしていることはいうまでもないだろう。それもあって『種の起原』も復刊されたと考えられるし、その復刊が可能だったのは甥に渡したのが「学術物以外の論文集の紙型」だったからである。これらのエピソードは大杉研究においてもふれられていないと思われるので、ここに取り上げてみた。


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