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古本夜話634 丘浅次郎『進化論講話』と開成館

前回の大杉栄訳『種の起原』のことで、大正十二年に刊行された彼の『自叙伝』(『大杉栄全集』第十二巻所収、現代思潮社)を再読してみた。すると中学時代の回想として、『進化論講話』との出会いが語られていた。
進化論講話(講談社学術文庫版)

 丘博士の『進化論講話』は壱岐坂時代かあるいはその少し後かに、幾度も繰り返しては愛読した。
 (中略)『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなってゆくような気がした。今まで知らなかった世界が、一ページごとに目の前に開けてゆくのだ。僕はこの愉快を一人で楽しむことはできなかった。そして友人にはみな、強いるようにして、その一読をすすめた。自然科学に対する僕の興味は、この本ではじめて目覚めさせられた。そして同時にまた、すべてのものは変化するというこの進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残っていたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはいりやすくさせた。

この丘浅次郎の『増補進化論講話』は同『生物学講話』とともに、浜松の時代舎で購入している。いずれも開成館から出された菊判上製の七〇〇ページを超える大冊で、前者は初版を明治三十七年とする大正三年修正第十一版、後者は大正五年再版である。ここでは前者の『増補進化論講話』にふれてみる。丘は動物学者だが、ダーウィンの進化論を忠実に受け入れ、それをベースとして人間の思想、文化、教育を論じることによって、明治末から大正期にかけて幅広い読者層を獲得し、特大な影響を与えたとされる。

それは「増補版はしがき」にある「本書の第一版の現れた頃には、この種類の書物は他に一種もなかつたが、それより十年を経た今日になつても、尚著しく増加したことを聞かぬ」という一節からもうかがえる。また先に挙げた大杉の回想も理解できるような気がする。まさに丘の進化論は「すべてのものは変化する」と教示しているからだ。

丘は進化論が生物界にのみ当てはまるもので、生物進化の意味を問い、その歴史をたどってダーウィンとその『種の起源』に至る。それを受けて人の飼養する動植物の変異、人為淘汰、野生の動植物の変異、動植物の増加、生存競争、自然淘汰というダーウィン理論を述べ、続いて生物進化論の証拠を論じていく。そこから進化論が哲学、宗教、社会、文学などに与えた影響が語られ、それが現代の文明世界に広範な風波を生じさせるに至ったと結論づけられている。

そして最後は「付録」として、「進化論に関する外国書」の案内が置かれ、その筆頭にダーウィンの『種の起源』『人の先祖』が挙げられ、それにハックスレイ、ヘッケル、ウォーレスなどの二十冊が並んでいる。その中でもヘッケルは四冊を占め、本連載153「埴谷雄高とヘッケル『生命の不可思議』」でもふれてきたが、ヘッケルが進化論の文脈の中で、翻訳紹介されてきたことが了解される。こうしたリストによって、大杉のように『進化論講話』の読者が、同じくダーウィンの『種の起源』の原書に向かっていったことは想像に難くない。何しろ「近来安い版が出来て居る故、五十銭位で買へる」とのコメントが付されているからだ。

また先の「同はしがき」にある、次のような結びの一節にも注目すべきだろう。そこには「開成館主人西野虎吉氏が、進化論に深き興味を有し、本書の初版以来その普及を図るに別段に熱心であったこと」、及び多くの図版の採用も彼によるとの言が述べられている。新たな思想書の普及には必ず出版社がコラボレーションしていて、この丘の言葉はそれを端的に示していよう。西野は『出版人物事典』にも立項されているので、それを引いてみる。
出版人物事典

 [西野虎吉 にしの・とらきち]一八六七〜一九一八(慶応三〜大正七)開成館主。大阪市生れ。大阪市の三木開成館に入り、一九〇一年(明治三四)上京して東京開成館を創立、「汽笛一声新橋を」に始まる大和田建樹の『鉄道唱歌』を発行、大評判を呼んだ。大阪の三木開成館と呼応して教科書界で活躍、藤井健治郎『植物教科書』、丘浅次郎『動物教科書』、三浦周行『国史教科書』、山崎直方『地理教科書』、高木貞治『数学教科書』等々各方面にわたる有名な教科書を多数出版し、一時は中学教科書の大御所とまでいわれた。東京書籍商組合評議員をつとめた。

この立項によって、奥付に表記されている「販売所」としての大阪の三木佐助、東京の林平次郎のことがよくわかる。三木は拙稿「明治維新前後の書店」(『書店の近代』所収、平凡社新書)でも取り上げられているが、後の大阪書籍の社長、平は六合館館主で、いずれも教科書、辞典、学参などの出版と取次を兼ねていて、このトライアングルが同時に丘浅次郎の著作の生産、流通、販売を担っていたことになる。おそらくこの三者は学校ルート販売に関しては最強で、そのインフラによって丘の著作も大きな影響を生じさせることになったと思われる。
書店の近代


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