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古本夜話645『綜合ヂャーナリズム講座』9

『綜合ヂャーナリズム講座』第九巻には杉村楚人冠「日本ヂャーナリズムの現勢」、安成二郎「新聞と婦人」も収録されている。前者は新聞編輯部の現在のみならず、印刷設備、科学的新機械の利用、洋紙の現勢などにも及ぶトータルな新聞状況を広範にレポートしている。後者は「新聞にはヂエンダーは無い」と書き出され、ここで早くも「ヂエンダー」なるタームが見えていることに驚かされるし、安成については拙稿「安成二郎と『女の世界』」()『古本探究3』所収)があることを付記しておく。これらも興味深いのだが、出版ではなく、新聞プロパーの論考なので、ここではタイトルを挙げるだけにとどめ、第九巻からは次の四編を紹介しよう。
 総合ジャーナリズム講座(日本図書センター復刻版)古本探究3

 1 為藤五郎 「教育雑誌の現勢・その編輯」
 2 梶原勝三郎 「埋草・ゴシップ・編輯後記の解剖」
 3 壺井繁治 「プロレタリア雑誌の経営」
 4 都倉義一 「婦人家庭図書の出版観」

1 の為藤は「講師略伝」によれば、東京高等師範学校卒業後、東京日日新聞記者、博文館の『中学世界』主筆、『太陽』編輯長を経て、現在は東京府会議員、『教育週報』主幹とある。彼の「教育雑誌の現勢・その編輯」を要約してみる。

全国学校教師の数は二十万余の小学教師にその他を加えても、二十二、三万ほどで、それに対する教育雑誌は七十種に達する。しかし教育社会はジャーナリズムと最も縁遠い世界で、それは思想的に時代の後陣、後端しか歩んでいないからである。教育雑誌で全盛なのは「教材物」で、それは三十種を占め、その次に学科別専門の物=「教材の蒐集乃至教材解説」が十七種を占める。そこに「仕出料理の如き教材ものゝ解説にのみ趨くといふ」「教育読書会の趨勢」が察知できる。そうした意味において、教育雑誌の現勢は浅薄と安易の平凡な道しかたどろうとしていない。それは編輯にも反映され、素人編輯であっても、東京広島の両高師、東京奈良の両女高師を背景とし、それらの付属小学校の訓導の肩書による執筆を中心として編輯される教育雑誌は最も売れている。そして為藤は「それ程にも、日本の教育社会は、偶像崇拝の世界なのである」と結論づけている。

2 の梶原の「埋草・ゴシップ・編輯後記の解剖」はこの講座ならではの論考であろう。彼は文芸雑誌『近代生活』の編輯を経て、翻訳、売文稼業にあるようだ。雑誌のおける埋草記事、ゴシップ、編輯後記などは「あらゆる記事のうち最も下らないもの」と軽視され、「六号記事といふあまり有難くない総称」を冠せられている。だが読者が新しい雑誌を手にした時、最初に目を通すのはこれらであり、六号記事の重要性は看過できないものだと見なし、それぞれの特質に言及し、次のように述べている。

 このやうにして、編輯後記もゴシップも埋草記事も、その簡明さや、軽快さや、気楽さの故に諸君の興味を惹き、他の論文や創作や中間読物などに先んじて愛読される。まことにこの六号記事こそは、その名の示す通り常に六号記事で誌面の片隅に押しこめられてゐるにもかゝはらず、雑誌の持つ最も有力な触手となり吸盤となり招き手となつて、重要な役割を果たしてゐるのである。
 たゞそれだけではなく、貴重な誌面に無駄な空白(ブランク)を残して徒に雑誌の不充実さを暴露したり、堅苦しい記事や長い読物ばかり羅列して諸君に倦怠を覚えさせたりする危険を防ぐ上にも、この六号記事は、欠くことの出来ない有効な武器となるのである。

そして続けて、それぞれの性質と機能が解剖されていくのであるが、それらは省略する。ただ埋草・ゴシップ・編輯後記が「雑誌の持つ最も有力な触手となり吸盤となり招き手となつてゐる」との記述は、昭和時代に至って近代雑誌が成熟してきたことの表われであろう。

3 の壺井繁治による「プロレタリア雑誌の経営」は『戦旗』を中心とするもので、それは彼が戦旗社経営の仕事に携わってきたことによっている。これは「プロレタリア雑誌としての『戦旗』が、毎号毎号『発禁』をクヒながらも、何故につぶされる事なく発行が続けられて行つてゐるかと云ふ」話で、「プロレタリア雑誌の発行、経営は、一つの組織事実だる」ことを語っているのである。

『戦旗』の場合、通常の取次、書店ルート=「御頭配布またはブルジョワ配布網」も利用しているが、「直接配布網」によって読者の手に渡すことで、発禁と押収からの防衛をしている。この「直接配布網」は支局や読者会が単位となって形成され、それらは読者のグループであるので、本社との緊密な連携によって、雑誌発行以前に必要部数を本社に注文し、敏速に読者に配布するというシステムになっている。この方法によっているために、発禁処分を受けても、押収以前に大部分が読者の手に渡っていることになり、これによる部数も伸びていったのである。

ちなみに壺井は昭和三年五月の創刊号から同五年四月までの通巻二十六冊のうちの十三冊が発禁になったことを示す一方で、部数が七千部から二万二千部、三倍以上になったことはひとえに「直接配布網」に支えられ、そこに財政的基盤を置いていたからだとしている。「街頭配布」の場合、常に押収の危険にさらされているので、財政的基盤にはならないからだ。また第九巻には甘露寺八郎の「出版書肆鳥瞰図(四)」として「戦旗社の巻」も掲載されているが、重複するところもあるので、ここでは言及しない。

4 の都倉義一の「婦人家庭図書の出版観」は実業之日本社編集局長兼主筆としての視点からレポートされているので、それを追ってみる。都倉は婦人家庭図書が広範囲に及ぶので、結婚から家庭、そこで生じる出産育児、主婦として必要な料理、裁縫、手芸、化粧、家庭医学、看護法などの図書に言及したいと述べ、大正時代に入ってからの実業之日本社の各種家庭図書にふれている。とりわけ「嫁入文庫」シリーズ十二冊はよく売れ、明治半ばから大正十年前後まではロングセラーも多く、「家庭書は有望な一の出版物」だった。

ところが大正末から昭和に入ると、売れ行きが落ち始めた。それでも各社の料理書、健康法に関する本、通俗医学書はそれなりに売れているが、最近の傾向として婦人家庭書は不況だといえる。それは新聞と婦人雑誌の発達が婦人家庭図書の領域を侵していることによるのではないかという推測を行なっている。またそれゆえにこそ、婦人家庭図書の進むべき新天地の開拓を試みるべきだとの結論に至る。それこそジャーナリズムと婦人家庭図書のせめぎ合いの時期を迎えていたことになるのだろうか。


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