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古本夜話651 仏教清徒同志会、『新仏教』、神智学

前回の小林康達の、若き杉村楚人冠伝『七花八裂』(現代書館)において、明治三十二年の仏教清徒同志会(後に新仏教徒同志会)の結成から『新仏教』創刊までの経緯が述べられている。その背景にあるのは仏教の国家保護やキリスト教排除を目的とする仏教諸団体の公認教運動だった。それに対して境野黄洋、田中治六、安藤弘、高嶋米峰の四人によって、活動の重点を道徳腐敗の救護にあて、ピューリタンを擬した仏教清徒同志会が結成された。その後に杉村広太郎、渡辺海旭、加藤玄智、融道玄が加わり、この八人が評議員となり、翌年の三十三年六月に機関誌としての月刊誌『新仏教』創刊号の刊行を見た。

七花八裂

『新仏教』は大正四年までに一八三冊が刊行されることになるのだが、杉村が関わった仏教と雑誌の流れからすれば、仏教青年教会、新仏教運動と仏教清徒同志会とパラレルに、『反省会雑誌』(後に『反省雑誌』)、『仏教』、『新仏教』があったと見ていいだろう。

この『新仏教』創刊号が手元にある。昭和五十七年に日本近代文学館の「復刻日本の雑誌」シリーズの一冊として、講談社から刊行されたもので、菊判六十ページほどの雑誌だが、残念なことにこの一冊しか見ていない。「本誌編輯員」としては、先の融道玄を除く七人が名を連ね、発行者兼編輯者を境野哲、発行所を仏教清徒同志会、発売所を四海堂として刊行されている。

巻末広告によれば、四海堂は「青年唯一の文学雑誌」とある『文星』の版元だが、その後も含め、『新仏教』との関係は不明である。その他にも開発社、東洋哲学発行所、宝鏡社、哲学書院、経世書院、哲学館といった出版社が並んでいるが、これらは新仏教運動と「本誌編輯員」たちの近傍にあったと推測できる。

巻頭に「『新仏教』の発行を祝す」を寄せているのは、東京帝国大学文科大学長も務めた哲学者の井上哲次郎、後に東京帝大印度哲学科初代教授を経て、大谷大学学長となる村上専精も創刊祝辞として「『新仏教』に告く」を送っている。

そして次のような「綱領」六ヵ条の掲載がある。

   一、我徒は仏教の健全なる信仰を根本義とす
   二、我徒は健全なる信仰知識及道義を振作普及して社会の根本的改善を力む
   三、我徒は仏教及其の他宗教の自由討究を主張す
   四、我徒は一切迷信の勦絶を期す
   五、我徒は従来の宗教的制度及儀式を保持するの必要を認めず
   六、我徒は総べて政治上の保護干渉を斥く

この「綱領」に続いて、「我徒の宣告」が五ページにわたって述べられている。それは従来の仏教に対して、「朽腐せる習慣的」にして「瀕死の形式的」な「迷信的」「厭世的旧仏教」と見なし、「新仏教」のめざすところが宣言される。それを引いてみる。これらには全文に傍点、ナカグロ、ナカシロが打たれているが、それは省略し、ゴチックで示す。

 (前略)一切宗教教義の自由討究は、我徒が樹つる所の旗幟の鮮明を致すに於て、最も著しき標目の一なり。これ其根本実在と、直接なる演繹的連絡の、到底分離すべからざる関係あるものゝ外は、必すしも故なく計執することを欲せす、以て一方に於ては、学理上宗教(仏教)の歴史的成立を明にし、他の一方に於ては、実際上由りて以て其の迷信及び誤謬の伝説を排除し、終に新宗教(新仏教)建立の基礎を成さんとする所以のものなり。されは我徒は広く真理と善徳とを求む。彼の仏耶二教の合一の如きも、亦我徒理想の一にして、亦其の希望の一也。

この引用の最後のところにある「彼の仏耶二教の合一の如きも、亦我徒は理想の一にして、亦其の希望の一也」という一節こそは、新仏教運動のコアを示しているようにも思える。この「我徒の宣言」が誰によって書かれたかは判明していないが、やはり最も気になるのはこの一説で、「彼の仏耶二教の合一」なる発想はどこからもたらされたものなのであろうか。

それに関連する論考として、縦横生の「東西南北」の掲載がある。この縦横生とはいうまでもなく、杉村のことだが、その中で、「僕は是れ実に熱心なる仏教徒也と」称する「ス某」というイギリス人生まれの青年で、オックスフォード大学を出て、「今より二年前、亜米利加を経て日本に来れるもの」を登場させている。彼によれば、キリスト教にしても、キリスト時代には「仏耶両教の間其の根本義に於て、殆と相違なる所なかりし」。また「現に活ける仏教を有せるものは、渾円球上、唯北米合衆国あるのみ。米国の仏教は流をオルゴツト、ブラヷスキーの神智学派に汲み」とされる。

「ブラヷスキー」とは本連載148のブラヴァツキーであり、「オルゴツト」はあの序の盟友のオルコット大佐で、二人はアメリカで一八七五年(明治八年)に神智学協会を設立している。そういえば、本連載34などの今東光の父は神智学に傾倒していたようだし、同563のリシャルも神智学に関係していた。これらのことを考えると、明治後半から大正時代にかけて、神智学はかなり広く伝播していたと見なすべきだろう。またオルコットのほうは未見だが、『仏教問答』(仏書出版会、明治十九年)が翻訳されている。さらにオルコットは明治二十二年に来日して講演し、それらは同年に『仏教四大演説集』(佐野正道刊)、『仏教大演説速記』(波多野鐵太郎刊)として刊行されている。この二冊はブラヴァツキーの『霊智学解説』(博文館、明治四十三年)の昭和五十七年の心交社からの復刻に際し、合わせて収録されるに至っている。

霊智学解説(『霊智学解説』、復刻版)

さてこの『霊智学解説』の訳者はE・S・ステブンスンと宇高兵作である。この二人のプロフィルは定かでないが、両者とも奥付住所に相州逗子と記載されていることから、横須賀の海軍機関学校の教官だったと伝えられている。このステブンスンは、東京朝日新聞社に在籍していた評論家の長沢則夫が「日本における最大の友人」らしいけれども、彼が杉村の「東西南北」に出て来る「ス某」ではないだろうか。

それらに加えて、小林康達の『七花八裂』によれば、杉村は明治三十年に京都西本願寺文学寮舎監兼教師を退職して上京し、文学寮卒業生と共同生活する聚星泊を設けた。その頃、彼はイーストレーキからフリーメーソンに関する詳しい話を聞き、そのような秘密結社をめざすことを目論んでいたし、仏教清徒同志会も同様に構想されていた。すでに鈴木大拙とも知り合い、神智学について知識を得ていたはずだ。それに新仏教運動そのものがオルコットの来日と講演活動をひとつの始まりとしていたように思えてならない。それらの講演は仏教徒を対象としたものであり、『仏教四大演説集』は京都知恩院の千畳敷の間、『仏教大演説速記』は名古屋の大谷派本願寺別院にて行なわれたものである。これらの「復刻版刊行に当って」によれば、オルコットの講演は湯島麟祥院、芝増上寺、浅草本願寺などでも精力的に行なわれ、この二冊の他にも四種の書名が挙がっているが、多数が刊行されたようだ。だが近代仏教史において、オルコットの来日と講演はほとんど無視されているという。それを探るために、もう一編続けてみたい。


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