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古本夜話654 藤無染『英和対訳 二聖の福音』

これは前回のゴルドン夫人の『弘法大師と景教』のように、国会図書館でデジタル化されていないし、現物も入手していないので、本連載としてはイレギュラーだが、あえて取り上げてみる。それは藤無染の『英和対訳 二聖の福音』で、明治三十八年に新公論社から刊行されている。新公論社は『中央公論』編集主幹の地位を追われた桜井義肇が、杉村楚人冠や高嶋米峰の支持を得て創刊した『新公論』のために、三十七年に設立された版元である。それゆえに『新公論』の執筆者や構成も『中央公論』を踏襲して始められたが、杉村や高嶋が編集に参加していたことからすれば、本連載651の『新仏教』と同様に、新公論社も新仏教運動の近傍にあったと見ていいだろう。

この新公論社刊行の藤の『英和対訳 二聖の福音』にふれておこうと思ったのは、この内容が安藤礼二の『光の曼陀羅』に紹介されていたこと、また藤の同書が『新仏教』やゴルドン夫人のいうところの「仏耶二教の合一」を体現する一冊として、本連載248の『天界と地獄』、同652『霊智学解説』がそうだったように、おそらく自費出版されていたことによっている。安藤はこの「藤無染が編集した書物」「本当に小さな、本というよりは携帯できる小型の小冊子」に関して、次のように述べている。

光の曼陀羅
 ではなぜ「著」ではなく「編」なのか。それはこの本が、仏陀と基督の生涯と教説(無染の記すところでは「伝記」と「聖訓」)をそれぞれ三十項目ずつ選び出して、この二人の聖人が、それぞれいかに同じ生涯を送り、いかに同じ教えを述べているか、日本語と英語で対比させたものだからである。無染が行ったのは、英語で書かれた当時最新の仏教研究書を参考として、二聖の生涯と教説を選び出し、日本語に翻訳していく作業だったのである。

そして安藤は本文を引用し、その実例を示しているのだが、ここではこれ以上の言及は差し控えるので、関心のある読者は『光の曼陀羅』を参照してほしい。

さてこの藤無染だが、私もかつて「小山書店と『八雲』」(『古雑誌探究』所収)において、『銀の匙』 などの中勘助の「小児愛」=ロリータ・コンプレックスに言及した際に、富岡多恵子の『中勘助の恋』(創元社)に加え、初めて藤という人物が出てくる『釈迢空ノート』 (岩波書店)も挙げておいた。それは中の小児愛にしても、折口の同性愛にしても、富岡のいう「〈倒錯に対する親和性がきわめて高〉い家父長制の社会」を背景にしているのではないかという仮説を検証するためだった。それはひとまずおくとして、富岡によって後書の中で突き止められた藤が、折口信夫に釈迢空という名前を与えると同時に、初めての年上の同性愛の相手にして、本連載46の折口の「口ぶえ」のモデル、また釈迢空名で『死者の書』を書かせるに至った人物に他ならなかったのである。
古雑誌探究  銀の匙 中勘助の恋釈迢空ノート

『釈迢空ノート』 によって明らかにされた藤無染の長くない生涯と折口の関係は、次のようなものであった。藤は明治十一年に大阪の寺に生まれ、二十八年得度した僧侶で、三十二年に西本願寺文学寮を卒業する。三十六年に佐賀第五仏教中学の英語教師となるが、翌年辞職して上京し、住職の資格を取得に至る。そして三十八年に折口が国学院に入学するために上京する。そして折口は「自撰年譜」に記すのだ。「麹町区三番町素人下宿の摂津三島郡佐位寺(佐井寺)の人、新仏教家藤無染氏の部屋に同居」と。だがこの藤に関して、富岡の『釈迢空ノート』 が刊行されるまではほとんど言及されてこなかった。それには藤の四十二年における病死も作用していたであろう。しかし折口と同居を始めた年に『英和対訳 二聖の福音』が刊行されていることからすれば、折口はその出版に寄り添うような立場にいたことになる。また藤にしても、杉村楚人冠が明治二十九年から三十一年にかけて、西本願寺文学寮舎監兼教師を務めていたことを考えれば、藤は杉村の英語の教え子でもあったはずで、新仏教運動の系譜は杉村、藤、折口へと継承されていたと見なせよう。

そして安藤による『英和対訳 二聖の福音』の紹介と解説から明らかになったのは、これがポール・ケーラスの『仏陀の福音』、仏教徒キリスト教の間に神智学を介在させるブラヴァツキーの流れを組むヘルメッティック・ブッディズムの中から生み出されたという事実であろう。鈴木大拙による『仏陀の福音』の翻訳は明治二十八年に刊行されているが、まだ『天界と地獄』や『霊智学解説』は出されておらず、藤の『英和対訳 二聖の福音』が先行していたことになる。

したがって「新仏教家」としての藤のスタンスはスウェーデンボルグを背景とする鈴木大拙の神秘主義と霊性、その師たるポール・ケーラスの仏教とキリスト教の融合、ブラヴァツキーの神智学などによっていたと考えられ、その体現が『英和対訳 二聖の福音』として結実したのである。それは現在ではなく、明治末期の思考だったし、「まだ十代の折口が、無染の知識とその広大なビジョンに心底震撼させられたのかよくわかるような気がする」と安藤も述べている、しかも富岡がいうように、折口は愛される側、藤の「快楽の客体」であったのだから。

安藤の追悼の言葉を引くことで、本稿を閉じよう。

 折口信夫の「学」の起源に存在していた謎の人物、藤無染(一八七六−一九〇九)。
 歴史の闇に埋もれた一人の無名の青年。限りなく妄念に近づいた普遍宗教への想いを抱きながら、折口以外の誰にもその内面を伝えることなく、孤独と失意のうちにこの世を去らなければならなかった「新仏教徒」。

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