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古本夜話658 鈴木重信と『耆那教聖典』

前回記したように、まだ興亡史論刊行会を名乗っていた松宮春一郎が、『世界聖典全集』の刊行を決意したのは、一時に妻子を失うという身近な死を受けてのことだった。しかし『世界聖典全集』刊行にあっても、予期しない死に遭遇せざるを得なかった。
それは「編輯顧問及訳者」の一人にして、彼だけが肩書の付されていない鈴木重信で、前輯第七巻『耆那教聖典』の訳者であった。彼の死は松宮にとっても、妻子の死と同様に衝撃をもたらし、同巻の巻頭に追悼の辞、巻末に「故鈴木重信君を憶ふ」という十六ページに及ぶ長い野辺送りの一文を草せるに至っている。
世界聖典全集 (『世界聖典全集』前輯第七巻『耆那教聖典』)

おそらく耆那教研究に身を捧げた鈴木重信の三十一歳の「その生の短く、その志の長かりし」を伝えるポートレートは、ここに松宮によってしか述べられていないと思われるので、それを引いてみる。またこの一文を結ぶに当たって、「松宮春一郎泣草」としるしていることからして、彼の悲嘆ぶりが伝わってくる。

 君は明治廿三年七月卅一日、国学者鈴木重尚氏の嗣子として、伊予松山市に生れた。同卅九年三月、十七歳の春、父君が当時高等女学校長たられた任地、宮崎県延岡中学校を卒業し、同年麌(鹿児)島なる第七高等学校に入学し、その第二部に学んで、将来機械工学に志した。その翌年五月、病に犯され、中途にして退学の余儀なきに至った。同四十四年曹洞宗大学に入学し、大正四年卒業した。同年五月東洋大学に籍をおき、河口慧海師について西蔵語の研究をはじめ、更に同年九月東京帝国大学に入り、印度哲学専科生となり、昨大正八年五月西蔵語科を、同七年印度哲学科の課程を修了した。それより先き、大正三年十月、曹洞宗に帰依して得度を受け、尋で同五年四月房州鋸山なる乾坤山日本禅寺の法燈を承いだ。学窓を出でて僅か一年、本郷動坂なる仮寓に遷化し、日本禅寺に葬つた。

松宮によれば、鈴木の病は高等学校時の肋膜炎から始まり、それが明治四十二年には脊柱腐骨病となり、手術を重ねた。その後菜食主義を実践して功を奏し、奇蹟的患者と呼ばれるほどの回復を示したが、大正三年には余毒が腎臓と膀胱をも犯した。それでも六年末には体重も増え、病魔も征服したようだったけれど、次には大腿骨にカリエスの併発を見てしまい、九年に短い生涯に終わりを告げたのである。

鈴木はその十三年にわたる闘病生活の中にあって、「頭脳明晰、才気煥発」「無比の勤勉」をもって、宗教哲学の原典や各国語の聖書に向かい、高楠順次郎によって『世界聖典全集』の中に鈴木訳の、『耆那教聖典』を加えることが推奨されたのである。

高楠もまた「耆那教聖典後に題す」において、鈴木がチベット語、サンスクリット語、パーリ後に熟達し、卒論として耆那教論を提出した才を愛し、「当代希に観る篤学の士」と呼んでいる。それゆえに同巻には耆那教の「瑜伽論」「入諦義経」「聖行経」の聖典だけでなく、鈴木の卒論である「耆那教論」も収録されるに至っている。

さてそれならば、耆那教とは何かということになるのだが、これも同巻に沿って簡略に示しておくべきだろう。耆那教は仏教の仏陀と同時代の大雄を開祖とする古代インド宗教で、教徒は不殺生を守り、無所有を主張し、衣食住の一切を簡易化し、厳格なる無所有、苦行、禁欲主義をもって知られた。それゆえに大雄と仏陀は根本的に教義を異にし、対立する関係にあるが、二人は個人的会見を為さなかったという。ただ耆那教は仏教とちがって、インド以外の地へはほとんど伝わらなかったとされる。だがインド国内には深く根を下ろし、信徒数は少ないにしても、インド文化論方面に影響を与え続けているようだ。

確かに耆那教は日本へも移植されなかったはずだが、その思想と教義は、安藤礼二も『光の曼陀羅』で指摘しているように、鈴木重信の『耆那教聖典』を通じて、戦後日本文学の中にも取りこまれていったのである。それは埴谷雄高の『死霊』に他ならず、そこにおいて、鈴木重信の「その志の長かりし」を実現したことになる。埴谷は『死霊』の初版「自序」で書いている。
光の曼陀羅 死霊(講談社文芸文庫)

 嘗て耆那教の聖典に接したとき、私には一つの奇妙なヴィジョンが浮かんだ。耆那教とは印度古来より現在までもひきつづいている戒律酷しい一教団であって、かつて私が述べるような事実は存しなかったが、私は私自身の法則に従ってその素朴な教儀を私流の領域へまで極端化してみたのである。そのとき浮かび上がってきたヴィジョンとはこうである。その教団はその頃餓死教団といわれていた。着ること食うことはおろか呼吸すらその信徒たちは禁ぜられていた。従って、教団の信徒達が集り籠っている或る高山や登りゆくと、その途上の此処彼処にミイラ化し或いは風化したひとびとの死体が無数に見受けられた。けれども、如何なる理由によるのか、該教団の始祖大雄のみは深く暗い洞窟の奥にその瞑想的な眼を光らせて生きていた。菩提樹の下で釈迦が正覚し無窮の碧空を眺めあげたとき、ふと想い出したのがこの大雄である。(事実に於いては彼等の年代は遺憾ながらややずれていて彼等は互いに相知らなかったが、私の極端化の法則はここでも時間的、空間的な事実の拘束など無視する。)ヒマラヤに似た美しい白い雪をかむったその高山へ辿り着いた釈迦は、深く暗い洞窟のなかへ大雄の前まで静かに進んでゆく……。これが私のヴィジョンの出発点である。この釈迦と大雄の対話の章は作中人物が語る一つの物語として、この作品に最後近くに現われる筈であって、この作品全体の観念の中心をなしている。(……)

『耆那教聖典』が埴谷に与えたインパクトを伝えるために、あえて省略を施さず、そのまま長く引用してしまったが、これもある時代における読者と書物の出会いを如実に物語っているといえるだろう。実際に『死霊』は完結に至らなかったので、「釈迦と大雄の対話の章は作中人物が語る一つの物語として」出現しなかったことになる。しかし埴谷の言葉ではないけれど、鈴木重信から埴谷へと、ひとつのヴィジョンのバトンタッチはなされたのである。

だがそれにしても、本連載153で大橋図書館における埴谷とヘッケルの出会いを想定したが、『世界聖典全集』も同様だったのであろうか。


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