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古本夜話663 光の書房と上田光雄

前回、「興亜全書」の一冊である『アラビア思想史』の戦後改訂版『イスラーム思想史』に神秘主義(スーフィズム)が加えられたことを既述しておいた。しかしこれが戦後に書かれた「アラビア哲学」という論文に基づくもので、光の書房の「世界哲学講座」第五巻に掲載されたという井筒の「後記」での言及にはふれてこなかった。

この「世界哲学講座」を例によって『全集叢書総覧新訂版』で確認してみると、確かに昭和二十三年に全五巻が刊行されていた。そして平成二年に中央公論社から『井筒俊彦著作集』が刊行され、その第一巻『神秘哲学』を手にするに及んだ。そこに昭和五十三年に人文書院から二冊本で刊行の『神秘哲学』の第一部が、その書影も含めて掲載され、同二十四年に光の書房から出版されていたことを知った。そしてさらにこれが戦前の慶應義塾大学の「ギリシア神秘思想史」講義ノートによっていて、同教授松本信弘の慫慂に励まされ、新たな構想の下に書き直され、上梓となったことも。
神秘哲学(人文書院版)

この『神秘哲学』の内容に関しては贅言をはさむまでもなく、人文書院「新版前書き」に見られる井筒の言葉を引いておく。表面的にはソクラテス以前からプロティノスに至るギリシア哲学史の体裁を取っているが、「より一般的に、形而上学的思惟の根源に伏在する一種独特の実在体験を、ギリシア哲学というひとつの特殊な場で取り出してみようとした拙い試み」である。それは「ギリシア的思惟の底には、少なくとも密儀宗教的な神秘体験のパトスが渦巻いていることもまた事実であり、このパトスの地下の声に耳を傾けることもギリシア哲学にたいする正しいアプローチの一つである」と確信しているからだ。これは蛇足かもしれないが、この「月報」に寄せられた中沢新一の「創造の出発点」は『神秘哲学』の簡潔なチャートとなっていることも付記しておく。

そしてその第一部に続き、井筒はギリシアとまったく異質な『旧約聖書』にヘブライ的な神秘主義の根源を探り、この一神教的思潮がギリシアの新プラトン主義とキリスト教において合流し、カルメル会的神秘主義へと至る過程をたどるつもりでいたが、「本書の出版直後、出版社が倒れるという思いがけない事件が起って、そのために幸か不幸か私の計画もあえなく挫折してしまった」のである。つまり光の書房が倒産してしまったことが語られている。

これを読んで、あらためて光の書房という出版社のことが気になると同時に、その社名も記憶にとどめることになったのである。だが光の書房の本を入手したのはしばらく経ってからで、たまたま古書目録で佐久間鼎の『神秘的体験の科学』を見つけたことによっている。ただこれはB6判並製、戦後特有の仙花紙と称される粗悪な二二五ページからなる一冊で、タイトルや内容にあまりふさわしくない印象を覚えてしまう。著者の佐久間は心理学者として、当時九州大学教授だったと思われるが、同書は心理学から見られた神秘的体験、神秘主義に関する五つの戦前の論稿から構成されている。奥付に示された光の書房の住所は中野区鷺宮、発行人は上田光雄とあり、昭和二十三年に定価100円で出版されている。

しかしこの光の書房と上田光雄に関して、ずっと手がかりがつかめずにいた。ところが平成二十三年になって、若松英輔の『井筒俊彦』(慶應義塾出版会)が刊行され、その第一章は「井筒俊彦を論じるなら、『神秘主義』から始めなくてはならない。それは、思想的始原、個人史を論じるとしても変わらない」と、まさに始まっていたのである。しかもそれは光の書房版『神秘哲学』のことに他ならず、必然的に光の書房と社主の上田光雄にも焦点が当てられていく。そして若松は次のように書いている。
井筒俊彦

「今となっては上田光雄を知る人はほとんどいないだろう。(中略)生年、没年、出身地など、上田の個人的背景までわかっていることはないのである」と。上田の痕跡として残されているのは、光の書房の『神秘哲学』などの出版物、稲垣足穂の『東京遁走曲』(河出文庫)における言及、上田の訳書のカント『純粋理性批判』、シェリング『神とは何か』、フェヒナー『宇宙光明の哲学/霊魂不滅の理説』、著書として『ハルトマンの無意識の哲学』ということになる。それらを通じて、若松は上田と光の書房のプロフィルを提出している。
東京遁走曲 世界哲学講座(「世界哲学講座」第16巻『純粋理性批判』)

 上田の出版事業は大きく二期に分けられる。戦時中に疎開した長野で、戦後すぐに始めた「日本科学哲学会」の運営と、その後東京へ戻り、一九四七年から四九年にかけて行われた「光の書房」の経営である。(中略)
 『神秘哲学』の奥付には、販売者である光の書房の他に「企画と発行」を受け持った事業体として「哲学道教団・神秘道 附属 哲学修道院 ロゴス自習大学」という名称が記されている。所在地は光の書房と同所である。(中略)
 「哲学修道院」などという特異な名称を、上田光雄が初めから使っていたのではない。起業は光の書房が先である。出版企画を受け持った事業体は、一九四七年十二月に刊行された「世界哲学講座」(以下「講座」)第一巻から確認できる。企画部門は当初、長野時代からの名称「日本科学哲学会」のみを用い、翌年そこに「ロゴス自由大学」の文字が加えられた。ロゴス自由大学を彼が企画したのも戦時下の長野時代だった。
 出版人としての上田光雄の業績は、全十九巻、付録一巻の計画で始められた「講座」に収斂するはずだった。しかし、結果的には順不同で発行され、第十四巻『神秘哲学』で終わった。刊行された巻数は予定の半数ほどだった。

先に『全集叢書総覧新訂版』の「世界哲学講座」五巻の刊行記載を示しておいたが、若松の記述といささかのずれがある。しかしこれらは未見なので、入手してから言及するしかないように思われる。また足穂と上田の出会いは、光の書房が雑誌『哲学と科学』を刊行していたことから始まっている。この雑誌にしても、同じく未見のままである。

まさにミスティックな光の書房と上田光雄への若松の記述は続いているのだが、これ以上の言及は差し控え、出版物や訳書を入手した際にもう一度ふれてみたいと思う。またミスティック絡みでふれておくと、二巻本『神秘哲学』を刊行した人文書院は、拙稿「心霊研究と出版社」(『古本探究3』所収)で指摘しておいたように、日本心霊学会として始まっているのである。
古本探究3

なお2010年に慶應義塾大学出版会から『神秘哲学』が刊行され、これは光の書房の復刻だと思われるが、まだ確認するに至っていない。
神秘哲学


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