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古本夜話664 青磁社版『嘔吐』、馬淵量司、美和書院

別の機会に書くつもりでいたが、前回の光の書房版『神秘哲学』と同時代にサルトルの『嘔吐』も刊行され、井筒俊彦もそれにふれているので、続けて取り上げてみる。

井筒は安岡章太郎との対談「思想と芸術」(『井筒俊彦著作集』別巻、中央公論社)の中で、次のように語っている。

 戦後間もなく三田の町を歩いていたら、三田の門のすぐそばの入り口のところの古本屋に、今でも色まで覚えていますが、赤い表紙の白井浩司さんの『嘔吐』の訳が、積み上げてあったんです。そのときのうれしさといったらなかった。
 私はそれを飛びつくように買って、家へ持って帰って一晩で読んでしまった。とくにマロニエの根っこがでてくる実存体験のところ、(中略)不気味な存在をあらわすところの体験が、本当にショックでした。

井筒のリアルな言葉は彼の世代にとっても、サルトルの『嘔吐』の衝撃が大きかったことを物語っている。それは戦後生まれの私たちの世代まで続き、やはり最初に感銘を覚えたフランス現代小説といえば、いずれも戦前に書かれていたのだが、『嘔吐』とカミュの『異邦人』(窪田啓作訳、新潮文庫)を挙げざるを得ないだろう。『嘔吐』に関しては後の人文書院版でなく、その始まりが「赤い表紙」の本にこめられていたことになる。
異邦人 嘔吐(人文書院版)

それともうひとつ井筒が伝えているのは、この当時『嘔吐』が古本屋に積み上げられていたという事実であろう。これは『嘔吐』が特価本として流通販売されていたことを示しているのではないだろうか。実はこの「赤い表紙」の『嘔吐』が手元にある。昭和二十二年二月初版発行で、発行所は 青磁社、発行者は萩田哲夫となっている。まだ戦後の混乱は続いていたし、そのような時代にマロニエの根が啓示する実存体験を読むことはまだ尚早であり、ほとんど売れずに特価本として放出されたと考えられる。

ちなみに人文書院版の『嘔吐』を見てみると、昭和二十六年二月初版とあるので、ちょうど四年後に復刊したとわかる。おそらく特価本として流通販売された青磁社版によって、サルトルと『嘔吐』の評価が高まり、それがきっかけとなりその後の人文書院の『サルトル全集』刊行へと結びついていったのではないだろうか。その意味で、売れなかったにしても、井筒のような読者を得た青磁社版は先駆的な役割を果たしたことになる。
サルトル全集

そしてまたこの青磁社版には人文書院版に見られない訳者の献辞が付されている。それは次のようなものだ。「この訳書をわが友、馬淵量司に捧ぐ」。馬淵に関しては以前に拙稿「真善美社と月曜書房」(『古本探究』所収)で言及しているが、彼は慶應大学在学中に白井浩司たちと同人雑誌『文科』を創刊し、短編を発表して注目され、また『文化評論』に長編小説を連載していたようだ。白井は青磁社版の「あとがき」で記している。
古本探究

 この翻訳の一部は、かつて戦前『文化評論』誌に載つたが、雑誌が廃刊を命ぜられるともに、原稿は篁底に眠ることを余儀なくされた。ここに出版の運びとなつたことに一種の感慨を禁じえない。

『文化評論』の詳細はつかんでいないけれど、出版統制以前の昭和十五年頃の創刊のように思われる。とすれば、フランスのガリマール社から『嘔吐』が出版されたのは一九三八年、つまり昭和十三年五月だから、ほぼリアルタイムで詠まれ、翻訳されていたことになる。青磁社版『嘔吐』をめぐって、これまで井筒の証言、三田の古本屋での特価本と見ていい平積み販売、訳者の白井と馬淵の関係、『文化評論』のことなどを取り上げてきたが、すべてが慶應大学の三田に結びついている。サルトルの『嘔吐』に注視する動きが当時の三田にあったのだろうか。

そして版元の青磁社であるが、先の萩田は経営者名で、これは本連載393などでも既述しておいたように、企業整備によって八雲書林と合併し、青磁社は実質的に八雲書林の創業者だった歌人の鎌田敬士が編集長となっていた。この事実からすれば、『嘔吐』も彼が手がけた可能性が高い。鎌田は様々な短歌誌の編集に携わる一方で、岩波書店、アルス、天人社、平凡社などにも務め、戦後になって白玉書房を興している。また野溝七生子の夫でもあった。そうした編集者人脈を通じて、『嘔吐』の翻訳は青磁社に持ちこまれ、出版されたのではないだろうか。これは本連載660でもふれたばかりだが、昭和十八年に青磁社から刊行の折口信夫『死者の書』も鎌田が手がけているはずなので、戦中戦後にわたってはいるけれど、東西の名著の編集に連なったことになる。

また訳者の白井から献辞を捧げられた馬淵量司のほうは昭和二十三年に真善美社から「アプレ・ゲール叢書」の一冊として、『不毛の墓場』という作品集を刊行している。これは明らかにヴアレリーやサルトルの影響がうかがわれ、白井たちとの戦時下における『嘔吐』の読書体験が反映されているのだろう。

だがその後、馬淵は昭和二十六年に美和書院なる出版社を設立し、ヨーロッパや日本のポルノグラフィを刊行し始める。前者はJ・クレランド『ファニー・ヒル』、J・スミス『トルー・ラブ』、H・シベリウス『ウィーンの裸体倶楽部』で、三冊とも原笙二訳として出版されている。だが当然のことながら訳者はペンネームで、それぞれ白井などの同人誌仲間の訳だとも伝えられている。

そうであるとすれば、戦前の三田に集ったサルトルの読者たちはそのままポルノグラフィの翻訳者でもあったことになる。当時の占領下におけるヨーロッパポルノグラフィの翻訳は、生々しい実存主義的な企ての色彩を帯びて実行されたのかもしれない。そういえば、それらのポルノグラフィの原色の表紙は、『嘔吐』の「赤い表紙」に似ているのである。


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