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古本夜話665 佐伯好郎『景教碑文研究』

少しばかり飛んでしまったが、本連載655『世界聖典外纂』の佐伯好郎による「景教」は、『景教碑文研究』のリライト版とも考えられるので、それを簡略に見ておきたい。

同653のゴルドン夫人の『弘法大師と景教』刊行の二年後の明治四十四年に、佐伯好郎の『景教碑文研究』が出版に至っている。これは発行兼発売所を神田区北神保町の待漏書院、発売所を三省堂とするもので、おそらくこのような奥付表記からして、待漏書院は書店、もしくは古本屋を兼ねる出版社であり、三省堂は取次ルートの販売流通を担ったと思われる。

この『景教碑文研究』には口絵写真としての景教碑、明治四十四年の高野山における、そのレプリカ除幕式が掲載され、後者にはゴルドン夫人の姿を認めることができる。そして佐伯の本文の他に「景教流行中国碑頌並序」「同略解」、「付録」として、佐伯の「払菻考」「太秦(禹豆麻佐)を論す」が置かれ、それらに続いて、ゴルドン夫人の先のテキスト、桑原隲蔵の「西安府の大秦景教流行中国碑」、高楠順次郎の景教碑文の選者僧景浄に関する英語論文The Nestorian Missionary Adam, Presbyter,Papas of China translating a Buddhist sutra が収録されている。ここに明治末期における景教とその碑文をめぐる言説が一堂に会しているといっていいだろう。

その中でも佐伯の「太秦(禹豆麻佐)を論す」は、本連載でも様々に言及してきた日ユ同祖論の根拠となる著名な論稿である。『歴史地理』の明治四十一年一月に掲載されたもので、この『景教碑文研究』における再録によって、新たなる神話として伝播していったように思われる。そこで佐伯はローマ、もしくはシリアとされる大秦=タイシンを発生とする景教は中国や朝鮮を経て、日本へとも伝来したと述べている。それは西ローマ帝国滅亡に伴う秦民二万人以上の帰化によってもたらされ、彼らは京都の太秦=ウヅマサに住み着き、太秦寺を建立した。
(『石神問答』)
それと関係の深い桂宮院には大辟神社があり、そこには伊佐良井という井戸がある。大辟とは今の大闢に当たり、これはダビテの支那字で、大辟神社とはダビテ王を祀る神社、すなわち秦民とはユダヤ民族に他ならない。伊佐良井はイスラエル人の「一賜楽業」(イスラエ)に由来する井戸で、広隆寺縁起に石を祭る神社とあるのも、石を立てて祭をなすのも異邦に流寓するユダヤ民族の旧習なのだ。かくしてここに景教碑文、ユダヤ民族、太秦寺三位一体伝説が提出されたのである。柳田国男研究会編著『柳田国男伝』(三一書房)の別冊の「年譜」によれば、明治四十五年一月一日に「『景教碑考』(ママ)を読了」とある。本連載559でふれたように、柳田は四十三年に『石神問答』を刊行しているので、その関連もあってだと見なせるが、同615の増田正雄との関係から考えれば、それだけで終わっていなかったと思われる。

この佐伯の「太秦(禹豆麻佐)を論す」と対照的にして実証的なのは、桑原隲蔵の「西安府の大秦景教流行中国碑」であり、異なる照明を当てている。景教碑発掘以来のそれに関する西洋や中国の著述をたどり、また実際にそれを親しく観た上で、中国在留宣教師セメドの『支那会史』(Semedo,Histoire Universelle de la Chine. 原書は1641年マドリードにて刊行)から、まずその発掘状況を抽出紹介している。これによって、景教碑の具体的な発掘と実像をつかむことができるだろう。

千六百二十五年(明の天啓五年)に陜西省の首府の西安府の付近て、或る支那人か建物を新築するのに、礎石を置く目的て地面を掘り下けた。所か古建物の下から大石碑か現はれ出た。長さは九Empan(一エンパンは22−24センチ―引用者注)以上、寛さは四Empan 暑さは一Empan 以上に及ふ。碑の一端はピラミッド形をして居る。ピラミッドの寛さは一Empan 高さは二Empan 位あつて、其面に見事なる十字架か刻まれて、その形はメリアプォル市にあるSaint Thomas の墓の彫刻のそれによく似て居る。
 十字架は雲に囲まれて、その下層には三行に各三個の大漢字か刻まれてある。この漢字は支那に一般に通用のものて、容易に読むことか出来る。碑の全面には大さこそ相違あれ同様の漢字、及び誰人も読み得なかつた外国の文字若干か刻まれてある。
 この珍奇なる古碑が出土するや否や、関係の支那人等はただちに其由を官衙に上告した。知府か現場に出馬して篤と古碑を検閲して後ち、之を新設の土台の上に安置し、風雨を蔽ふ為に其上に碑亭を構へた。併し諸人の観覧は自由に差許した。

セメドは漢名を魯徳照として知られ、一六二八年に西安に赴き、実地で景教碑の研究に携わっているので、欧米への紹介はセメドのレポートを出典としているとされる。

そして桑原は欧米における景教碑に関する様々な真偽論説を挙げ、また英国の学者たちは保存がよくない景教碑を大英博物館に引き取るように主張したとのエピソードも引いている。実際に十九世紀後半はそのような状態にあり、桑原は明治四十年(一九〇四年)に西安の金勝寺まで出かけ、景教碑を探望した時でも同様だった。

その一方で、桑原はデンマークのジャーナリストと称するホルムが、支那石工を雇い、同質の石材を用い、見事に仕上げた景教碑レプリカをアメリカに送り、それがニューヨークの博物館に安置されたことも記している。しかも偶然ながら、桑原はそのレプリカを運搬する大車を目撃していたのである。それゆえに、原碑が盗み出されたのではないことを確認して、桑原の論稿は閉じられている。

だがここで述べられている景教碑伝説はひとつの出土品の発見によって、多様多彩に織り成されていく近代神話形成のパターンの原型を示しているようにも思われる。それに本連載603の服部之総が「旧刊案内」(『原敬百歳』所収、中公文庫)で、佐伯から聞いた話として明らかにしている事実に従えば、北海道開発のためにユダヤ資本を日本へと導入するために、「大秦=ユダヤ人の構想」を思い着き、それが『景教碑文研究』につながっていったという。それは本連載655同110の酒井勝軍によるキリスト来日説に典型的に表出し、日ユ同祖論をめぐる根拠へともリンクしていたのである。

またコルドン夫人が高野山にレプリカを建立したのは明治四十四年なので、ホルムの例を範として同様にレプリカを作り、それを日本へと運んだと思われる。同じく先述したように、『景教碑文研究』の出版はやはり四十四年であり、ゴルドン夫人の試みと連鎖していたことになろう。

なお『景教碑文研究』は平成八年の大空社復刻によっている。


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