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古本夜話670 今北洪川『禅海一瀾』

前回は森江書店の、発行者を森江佐七とする麻生区飯倉町の森江本店の境野哲『印度仏教史綱』を取り上げたが、今回は本郷区春木町の森江英二の森江分店の書籍にもふれてみたい。後者が前者の養子で、独立して書店兼出版社を営んでいることも既述したばかりだ。

それはB6判よりも一回り小さい和本仕立ての一冊で、今北洪川禅師著『禅海一瀾』である。奥付には大正七年発行、昭和九年八版と記され、発兌元は本郷春木町の森江書店、発売所は麻生飯倉の森江本店、京都市木屋町の貝葉書店となっている。これは取次ルートの発売を意味し、東京は森江書店、京都は貝葉書店を窓口として、取次から書店へと流通販売されていったと推定できよう。
禅海一瀾 (柏樹社版)

そのように流通販売の回路は推定できるけれど、読者のイメージが立ち上がってこない。それはこの『禅海一瀾』が漢文によっているからで、しかもそれなりに版を重ねているということは、昭和に入っても、まだそのような読者が層をなしていた事実を教示していることになる。

著者の今北に関しては、『新撰大人名辞典』に立項があるので、まずそれを紹介してみる。

 イマキタコーゼン 今北洪川(一八一六―一九八二)は徳川末期より明治時代に亙る禅僧。諱は宗温、字は洪川、虚舟と号した。文化十三年摂津西成郡福島村に生る。初め藤澤東畡に儒典を学んだが、十九歳にて出家を志し、相国寺の大拙前史の道誉を聞くや、剃髪求道の至情を抑へ難く、二十五歳の時、父母及び愛妻と別れ大拙の下に刻苦精励し、その指図により諸師に讃辞、また諸寺を董した。四十三歳、吉川侯の聘によりて、周防岩国の水興禅寺に坐し、文久二年四十七歳にして、『禅海一瀾』を撰す。明治維新後次第に宗を負うて起つに至り、明治八年六十歳にして東京十山総黌大教師に任ぜられ、その十一月鎌倉円覚寺を董することになつたが、これより大いに禅風を関東の地に振はしめ、道俗の円覚寺を訪づれ或はその講座に列する者が頗る多くなつた。十三年権大教正となり十五年七山管長の職に就き、道誉をいよいよ謳はれたが、二十五年没、年七十七。著書に『禅海一瀾』の外『広録五巻』(門弟等の輯録)がある。弟子に釈宗演、宮路宗海らがある。

洪川についても、『禅海一瀾』についても、これ以上のことは付け加えることはできないが、洪川と鎌倉円覚寺によって、「大いに禅風を関東の地に振はしめ」るようになったのはわかるような気がする。新仏教運動との関係からすれば、洪川の死後になるけれど、明治二十八年に杉村広太郎(楚人冠)たちが円覚寺の釈宗演のもとで参禅している。また同時期に夏目漱石や浜口雄幸も参禅している。小林康達の『七花八裂』(現代書館)も日清戦争後の時代に、学生や知識人の間にあって禅学流行の兆しがあり、それが新仏教運動とも関係していたと指摘していた。
七花八裂

それらのことを考慮に入れると、『禅海一瀾』のロングセラー化も理解できるし、その巻末に収録された七十点ほどの禅に関連する仏教書のラインナップが了承される。森江本店の森江佐七は大正六年に亡くなっていることからすれば、実質的に森江書店の出版を継承したのは森江英二だといえるだろう。だが新仏教運動に同伴する出版はすでに高嶋米峰の丙午出版社がそのコアを占めていたので、森江本店が明治二十年代末の禅学流行の頃から出版していた関連書をメインとすることによって、昭和円本時代以降をサバイバルしようと試みたのではないだろうか。

そのことをうかがわせているのは『禅海一瀾』や『臨済録』などの「縮刷」という表示である。しかしそうした明治期とほとんど変わらない和本の仏教漢文書や古典の出版は専門家、もしくは高度な教科書にはふさわしくても、一般の読者層を得ることは次第に難しくなったと思われる。それはポピュラーな著者たちの不在となって表われていた。例えば、昭和十四年に春陽堂から「禅の講座」全六巻が刊行されている。これは一冊しか入手していないけれど、井上哲次郎、宇井伯壽、鈴木大拙を監修とするもので、その第一の特色として、「禅の大衆化」が謳われている。四六判箱入、津田青楓による装幀は明らかに円本を踏襲していて、仏教書をめぐる出版も、森江書店の『禅海一瀾』の和本と漢文によるものとまったく異なる時代に入ったことを伝えているようだ。

そういえば、米峰の丙午出版社が譲渡されたのも昭和九年であり、仏教書ルネサンスの時代の終わりを告げていたことになろう。新仏教に限らず、何らかのムーブメントが起きれば、そこには必ず出版活動が併走している。それは近代の文化現象に他ならず、本連載でも繰り返し言及してきたが、時代はすでに大東亜戦争下へと向かおうとしていた。昭和十年以後の森江書店の消息はほとんど聞かれていないように思われる。


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