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古本夜話672 大日本雄弁会『高嶋米峰氏大演説集』

<前回、高嶋米峰を新仏教運動の中心人物、『新仏教』の編輯者、鶏聲堂と丙午出版社の創業者として紹介しておいたが、それらだけでなく、米峰は演説家としても著名だったようだ。それは本連載669の境野哲も同様だったとされる。その事実を伝えるように、『高嶋米峰氏大演説集』という一冊が編まれ、昭和二年に大日本雄弁会から刊行されている。

その「序に代えて……(雄弁私見)」で、米峰は自らが雄弁家の天性を備えていないことを知っていたので、「演説屋が何だ]という反感を抱いていたと始めている。ところが「同志のものと共に、新仏教徒同志会といふ団体を組織して、新宗教運動を起すこと」になり、雑誌での「筆の伝導」だけでなく、「演壇に立つて、口でから宣伝しなくてはならない」状況に向かい合い、今さらながらに軽蔑していて「演説屋」のことがうらやましくなってきたと告白している。本連載でも近代の社会運動はかならず出版活動を伴って推進されると繰り返し述べてきたが、確かに考えてみれば、それは、「口の伝導」ともいえる「演説屋」=「雄弁家の存在も不可欠であったのだ。

そうして米峰は二十年に及ぶ演説経験を語り、『高嶋米峰氏大演説集』にはその二〇編を収録しているのだが、ここでは「井上円了先生を憶ふ」を取り上げてみたい。米峰はそこで明治維新に伴い、欧米の物質文明とキリスト教の流入により、日本仏教は廃仏毀釈の名において打ちのめされてしまったと述べている。そのような中で、文科大学哲学科の学生だった井上円了は東洋思想と仏教を興隆し、キリスト教に対抗しなければならないと考え、明治二十年に『仏教活動』を刊行し、それは三巻に及び、仏教を哲学として検証し、社会化することを企てた。それは哲学の民衆化をめざすものでもあった。米峰は続けて語る。

 先輩及び同窓の友人を勧誘して、哲学会を起して『哲学雑誌』を発行し、また哲学書院といふを設立して、哲学や宗教に関する新刊書の出版販売をする等、(中略)今日、日本の学界思想界が、かやうに進歩発達するに至つたについては、その先駆者としての、我が井上円了先生が、かやうにその多大な貢献があつた(中略)。
 先生は、又、哲学は独り西洋にあるばかりではない、東京には又東洋の哲学があるといふ見地から、東洋学研究の必要を唱導し、遂にその研究所としての学校の設立を計画せられました。それが(中略)即ち哲学館でありまして、今から四十年前のことであります。これが日本に於て、私立学校で哲学を教授した最初のものです。(中略)
 先生のかうした思想は国粋保存運動ともなつて現はれたのでありまして、三宅雪嶺、杉浦重剛、志賀重昂等の人々と政教社を組織し『日本人』という雑誌を出して、大いに気を吐かれたものでありました。

その一方で、井上は民間の迷信を打破するために妖怪研究にいそしみ、『妖怪学講義』を刊行している。これはそのアンソロジーといえる平野威馬雄編著『井上円了妖怪学講義』(リブロポート、昭和五十八年)からもわかるように、妖怪に関するエンサイクロペディアだといっていい。円了のいう「妖怪」とは「宇宙のいろいろな現象で、普通の道理ではとても解釈がつかないもの」をさし、その一は外界に存する幽霊、狐狸など、その二は内界から生じるもので、他人の媒介を経る巫覡(みこ)、神降(かみおろし)など、及び自分自身に生じる夢、夜行などに大別されている。
井上円了妖怪学講義

本連載651の『新仏教』創刊号の巻末広告に哲学書院の新刊案内が掲載され、そこには井上の『続妖怪百談』が荒木平次郎『日清韓三国千字文』とともに並んでいる。明治時代後期において、拙稿「心霊研究と出版社」(『古本探究3』所収)でふれておいたように、英国の心霊研究協会(SPR)のメンバーたちの著書の翻訳、また本連載247などにも新仏教運動に影響を与えたと思われるスウェーデンボルグや神智学のことを伝えてきた。だがそれらが井上円了と立場を異にするものであっても、その妖怪研究も新仏教運動の近傍に置かれていたし、それは米峰が語っている円了の歩みとも結びついていたといっていいだろう。
『続妖怪百談(復刻) 古本探究3

それとともにあらためて『新仏教』の巻末広告を見ると、『東洋哲学』の第七編第六号の案内があり、そこに『新仏教』編輯員の加藤玄智と田中治六が論説を寄せている。『東洋哲学』は哲学館の機関誌として、井上円了が創刊し、米峰が編集助手を務めていたはずだ。また巻末一ページは「哲学館入館生募集」と、その「仏教普通科講義」の内容案内で占められ、発行所の哲学館の名前が大きく打たれている。

先に新仏教運動は東西本願寺に多くの焦点が当てられているけれども、哲学館=東洋大学と併走していたのではないかと既述しておいたが、それは見逃してはならない事実のように思える。

それに加えて、この『高嶋米峰氏大演説集』の巻末広告を見てみると、永井柳太郎、鶴見祐輔、尾崎行雄、賀川豊彦、濱口雄幸などの『大演説集』の他に、『泰西雄弁集』『青年雄弁集』といった多くの類書が並び、明治から昭和にかけてが、紛れもない「演説」や「雄弁」の時代だったことを教えてくれる。そして講談社が大日本雄弁会を名乗っていたことが時代の表象であったことをあらためて実感する。
しかし九ページの及ぶ偉人伝、立志伝、修養書、漫画や漫文の雑書、時代小説や少年少女小説、傑作小説を見ていると、新仏教運動のかたわらには、このような講談社の出版物もあったことにもなる。例によって講談社も全出版目録が出されていないので、この全貌をつかめないが、リンクしていたのは米峰だけではないようにも思われる。


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