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古本夜話679 室伏高信、日本評論社、『戦争私書』

前回の室伏高信の『南進論』の巻末広告には彼の『論語』『孔子』『山の小屋から』『支那遊記』が並び、室伏と日本評論社の密接な関係を伝えている。実際に彼は昭和九年から十八年にかけて、『日本評論』の主筆を務めていたのである。

本連載ではふれてこなかったけれど、美作太郎も『戦前戦中を歩む』(日本評論社)において、室伏の写真も掲載し、彼が鈴木利貞社長の要請を受け、『日本評論』を『中央公論』や『改造』に伍する総合雑誌にするために主筆に任じたと書いている。そしてさらに最後のところで、「室伏高信との因縁」という章を設け、「評論家・室伏高信の名は、今日忘れ去られようとしている。(中略)しかし、大正末期から昭和戦後にかけて、かれが最も活躍したジャーナリストの一人であったことを否定するわけにはいかない」と始めている。

そして美作も『日本評論』の編集を手伝っていたので、室伏と絶えず接触していたこと、彼が内外の書物を渉猟し、「随一の多読家」にして、当時の評論家として著書が多いことで群を抜いていたことが語られている。また大正デモクラシーの「落し子」として、マルクス主義に反感を抱き、ファシズムも排撃していた。だが近衛新体制運動が始まると、「南進論者」として、日中戦争に反対し、むしろ南方に進出すべきだと考え、その役割から海軍の肩を持つようになり、情報局を仕切る陸軍との間に摩擦を生じさせた。それに加えて、『日本評論』における「室伏イズム」への風当たりも強く、美作たちは室伏に罷めてもらう意見でまとまり、彼は退くことになり、それを機にして、編集部が統一され、新たに編集局体制となり、初代局長に美作が就任したのである。美作は室伏が昭和四十五年に七十八歳で亡くなったことも記している。

そのような美作の証言に対し、室伏自身の述懐は『戦争私書』(全貌社、昭和四十一年、後に中公文庫、平成二年)に残されている。美作がいうところの大正末期から昭和戦後にかけて、「最も活躍したジャーナリストの一人」である室伏にしても、平成に入って復刊されたのはこの一冊だけではないだろうか。美作はこのうちの「十二月八日朝のラジオ」を引き、室伏がアメリカとの戦争に反対で、真珠湾攻撃のニュースを聞き、彼だけが「これはたいへんなことだ」と考えたことを指摘している。
戦争私書(中公文庫版)

室伏のほうは「戦時下のジャーナリズム(二)」において、日本評論社との関係を語っている。それによれば、昭和九年の同社は売れ残った本や返品をゾッキ屋に売り、月末の給料をまかなったので、「やりくり社」と呼ばれていたという。ちなみに石堂清倫も『わが異端の昭和史』(平凡社ライブラリー)で同様の証言をしている。室伏はその「やりくり社」に入り、支那事変が始まったことに合わせ、『経済往来』を『日本評論』と変え、支那寄りの原稿や記事を載せたことで、信用も高まり、日本評論社も大きくなっていった。同社には多くの「マルクス・ボーイ」がいて、その中でも石堂が群を抜いて優秀だったが、満鉄に移ってしまった。その他にも懇意だった者を挙げると、松本正雄、下村亮一、神敬尚、美作太郎、赤木健介、森三男吉といった錚々たる人たちがいたが、室伏はその後の同社と彼らについて、次のように述べている。
『わが異端の昭和史

 しかし青年が成年になって、木の年輪がましてきたというのか、そういうこともあったろうが、軍の出版統制もあって「斉一変して魯」ということで、マルクス・ボーイがいつの間にかファッショ・ボーイになっていた。心の底からかどうか、そういうことはわからないが、泣く子と地頭には勝てない、多分そういうことであったのか、軍部の旋風はここにも吹いていた。中にはせっせとドイツ大使館や陸軍の情報部へ足を運んでいるものもいた。社長の鈴木が真っ先に軍のご機嫌とりに夢中になっていた。そうなると強将のもと弱卒なしで、それが社会とまでなって行った。

これが本連載582で取り上げた『新独逸国家大系』などの企画へと結びついていくわけだが、ここで室伏はそのような日本評論社の戦時下の傾向によって、自分が詰腹を切らされ、二万何千円という退職金を得たものの、自らが『中央公論』『改造』『文藝春秋』と並ぶ四大雑誌のひとつに成長させた『日本評論』主筆から追放されたと語っていることになる。

しかしこれらのことは『戦争私書』に述べられているけれども、肝心な『南進論』の売れ行きとか、それにまつわるエピソードなどはまったくふれられておらず、残念だというしかない。それゆえに、昭和十年代の出版史をたどってみるしかないように思われる。

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