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古本夜話743 森本六爾と雄山閣「考古学講座」

 藤森栄一の『二粒の籾』に添えられた「森本六爾年譜」で、森本の処女作『金鐙山古墳の研究』が大正十五年に雄山閣から出されたことを知った。もちろん未見だが、その時彼は二十三歳だった。

f:id:OdaMitsuo:20171220112351j:plain:h110(『二粒の籾』)

 雄山閣に関しては本連載519などでも取り上げてきたけれど、あらためて確認してみると、『雄山閣と共に』(昭和四十五年)の「刊行図書目録」には見当たらず、『雄山閣八十年』(平成九年)の「出版図書目録」のほうに見つけることができた。それによれば、『金鐙山古墳の研究』はB5判90ページ、定価は一円五〇銭とある。無名の著者とテーマ、そのページ数と定価から考えても、同書は自費出版だったと見なしてかまわないだろう。

 そこに至る経緯と事情は、ひとえに雄山閣が大正一五年に「考古学講座」を企画刊行していたことに求められよう。雄山閣は大正十年に「文化叢書」を立ち上げ、その第4集の帝室博物館歴史課長の高橋健自『古墳と上代文化』が売れたことで、同一五年に「考古学講座」を始める。創業者の長坂金雄は『雄山閣と共に』で、その「考古学講座」と当時の学界に関して、数字や実名を挙げ、具体的に述べている。それらはここでしか得られない証言のように思われるので、少し長くなってしまうが、まず売れ行きのことを引いてみる。
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 高橋博士を中心に三宅米吉博士、柴田常恵氏、工学博士関根貞氏の各先生を顧問に、考古学、人類学、建築学、土俗学の処方面の大家権威者四十余名に依頼して、一冊二百五十頁内外のもの全十八巻、約四千頁ぐらいで完了する予定で発足した。定価は一冊一円六十銭で、予約出版に着手した。
 ところが、これが予想以上に受けて学界の大評判となり、第一巻は三千五百部印刷したが忽ち売り切れた。この頃はほとんど直接注文が多く、三千ぐらいが直接の予約者で前金で送金して来たので、またそれが毎月のように続いたから、経営は大変楽になった。

 しかしその一方で、売れ行きからも察せられるように、「当時考古学はハヤリだした学問だけに派閥、党派」があり、その構図にもふれている。

 たとえば、帝室博物館では高橋健自博士を中心にその一派があり、東大人類学教室には鳥居龍蔵博士と松村瞭理学博士が対立しており、(中略)早大には西村真次博士(中略)、とくにむずかしかったのは大山柏公で、(中略)若い考古学者の連中を寄せ集めて(中略)いた。
 このほか東京の高等師範の学長の三宅米吉博士あり、地方には仙台の東北大学の長谷部言人博士、京都市(ママ)大の浜田耕作博士、清野謙次博士の諸先生あり、考古学の研究が隆盛に向かう時期にぶつかつたので、それぞれの専門の範囲を主張して、なかなか譲らなかった。(中略)まさに噴火山上の如きごうごうたる有様となった。(中略)
 こんな具体に、『考古学講座』の計画は前後に千変万化の波乱、変転があったことは殆んど知っていた。かくして、中央はもちろん全国東西の考古学者を殆んど網羅したので、発表と同時に俄然人気を呼んだ。これが私の講座物に着手した第一歩であって、また私が出版界に頭角を現わす第一歩でもあった。

 そのかたわらで、やはり大正十五年に改造社の『現代日本文学全集』の刊行が始まり、「講座物」も含んだ昭和円本時代の幕が切って落とされたことを付記しておこう。
現代日本文学全集

 それはともかく、この考古学の「派閥、党派」に挙げられた人々のほとんどが、前回の松本清松の「断碑」のモデルに他ならず、森本六爾のような学歴を有しない在野の研究者がその渦中へと置かれたら、どのような対応を迫られたか、想像に難くない。「断碑」に描かれた以上のものだったはずだ。それでも長坂が挙げている「『考古学講座』一般講義の講師と科目」を見れば、先の人々の中にあって、森本は「墳墓」の講義と講師に名を連ね、それは彼がアカデミズムと伍するだけの実力を有し、認められていたことを告げている。それゆえに森本の『金鐙山古墳の研究』も、雄山閣から上梓されるに至ったのであろう。

 これらの森本の処女作の上梓と雄山閣の、「考古学講座」などの刊行を知ると、松本が「断碑」の中での「某書店から歴史講座の企画のひとつとしての『日本古代生活』という書き下しを頼まれていた。日に一枚か、二枚くらいしか書けなかった」という一節が、やはり雄山閣の「人類学・先史学講座」のための原稿のように思われた。これも長坂が証言しているように、「考古学講座」と同様に、浜田、長谷部、松村たちがメインとなって執筆者たちを動員していたからだ。

或る「小倉日記」伝(「断碑」)

 手元にあるのは昭和十三年の第三巻だが、「断碑」の中の原稿依頼は同十年半ばを推定されるので、時期的には符号している。『雄山閣八十年』も「人類学・先史学講座」全十九巻は昭和十三年に刊行始まるとあり、それを裏づけている。それに森本が「日本古代生活」を寄稿できたのかを確かめていないけれど、「考古学講座」以後、雄山閣は様々な「講座物」を次々に手がけていったことから、それらの寄稿者として森本ともずっとつながっていたように思われるし、それに『考古学』同人たちも連なっていたのではないだろうか。


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