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古本夜話748 直良信夫と松本清張「石の骨」

 前々回の山内清男と喜田貞吉の「ミネルヴァ論争」が続いている『ミネルヴァ』第四号に、直良信夫が「日本の最新世と人類発達史」を寄稿している。「最新世」とは洪積世をさし、直良の論稿は発掘化石や石器などの写真も示し、この時期から日本の旧石器時代も始まり、人類も発達してきたのではないかとする考究である。ただ直良は喜田貞吉との出会いによって考古学の道へと進むようになったこともあり、「ミネルヴァ論争」に加わるつもりでの寄稿ではなかったと思われる。
ミネルヴァ (復刻版)

直良に関しても、まず『「現代日本」朝日人物事典』の立項を引いておこう。
「現代日本」朝日人物事典

 直良信夫 なおらのぶお 1902.1.10~85.11.2 古生物学者、古人類学者。大分県生まれ。貧困な家に育ち、苦学して通った岩倉鉄道学校を中途退学、1920(大2)年農内務省に勤めた。病のため23年退職。24年結婚して直良に改姓。旧姓・村本。32(昭7)年早大獣類化石研究室に勤務、徳永重康に師事。45年早大講師、60~72年文学部教授を務めた。正規の教育は受けなかったが、古代の動植物、自然環境に深い洞察力をもち、瀬戸内海沿岸など各地より膨大な化石標本を収集。31年洪積世人類の寛骨(明石原人)、50~51年葛生原人などを発見した。(後略)

 このような経歴から、必然的に本連載741などの森本六爾とも親しく交流し、森本は直良に私淑していたようだし、これもまた同様に、松本清張の。「石の骨」のモデルともなっていた。それは森本をモデルとする「断碑」発表の翌年の昭和三十年に、同じ『別冊文藝春秋』に掲載され、ともに日本近代考古学の事件を扱っている。「石の骨」は立項に見える明石原人の発見をめぐるドラマであり、これまで名前を挙げてきた東大人類学教室のメンバーが総出演しているといっていい。登場人物とストーリーをたどってみる
或る「小倉日記」伝(「石の骨」「断碑」所収)

 黒津が考古学者の故宇津木先生記念碑除幕式に出席すると、式の委員長の水田博士が近づいてくる。水田は学界の長老であり、続いて考古学者のくせに、文化批評を書き、自分の名前を世間に出したがっているJ大助教授が席に誘った。宇津木は学歴は有さなかったけれど、一時はT大の教授となったが、陰謀に近い手段で実質的に追放されてしまった。それはT大の岡崎の人類学論文審査にまつわる問題で、竹中教授と植物学の小寺教授が宇津木に対し、この不備な論文審査に同意せよと請求した。そこで宇津木が辞表を出すに至ったのである。

 黒津は三十年前のことを回想する。彼は地方の中学校に奉職し、考古学の研究をしていた時、海岸で旧石器時代のものと思われる化石や石器を見つけ、さらにその崖の土砂崩れの中から人間の左側の腰骨片、化石人類の遺骸を発見した。それは日本にも旧石器時代があったという考古学上の宣言ともいえた。彼はその化石骨を持ち、鑑定を乞うためにT大人類学教室の岡崎博士を訪ねる。すると岡崎は驚愕の表情を示したが、一ヵ月後に化石と手紙が届き、そこには「旧石器時代の人骨とは認定し難く候」と書かれていた。

 どうしてそれが否定されたのか。その真相が判明したのはそれから数年後だった。化石が人類学教室に置かれていた際に、竹中博士が現われ、「彼の学者的嫉妬(ジェラシー)」からその化石はいい加減なものだと断言した。岡崎は論文審査のことで恩があり、それに同意し、否定の断を下すしかなかった。しかし黒津はそれを手元におき、さらに発掘に挑み、旧石器時代の推論を組み立てていたが、戦争が始まり、東京大空襲によって、腰骨の化石標本も灰燼に帰してしまった。だが戦後を迎え、水田からも書信があり、訪ねていくと、T大の標本室から岡崎が石膏で型をとっていた腰骨化石標本が見つかり、水田はそれを洪積世人類の遺骨と認めるので、自分が学界で発表し、命名するといった。そして黒津の「石の骨」は学名としてJapananthropus hatsuensis Mizutaとされたのである。

  高橋徹の「聞き書き・直良信夫伝」としての『明石原人の発見』(朝日新聞社、昭和五十二年)などを参照し、黒津=直良はいうまでもないが、これらの登場人物のモデルを明かしてみる。宇津木=鳥居龍蔵、水田=長谷部言人、岡崎=松村瞭、竹中=小金井良精、小寺=藤井健次郎、それから名前は記されていないけれど、J大助教授は樋口清之だと思われる。またこれらの人物設定の背景には、様々に錯綜した考古学と人類学のアカデミズム事情、大学内の人間関係と権力構造が複雑に絡んでいるのだが、それらを単純化してモデルを特定すれば、このような配置になる。
明石原人の発見

 そうして明石原人の発見をめぐる出来事を見てみると、あらためてキャリアに位置するアカデミズム、ノンキャリアというべき選科生、それらに対して発掘を通じて加わってきた学歴を有さない在野の研究者という、考古学における三層構造が浮かび上がってくるようにも思える。それは戦後も継承され、近年の所謂「ゴッドハンド事件」はその構造を象徴的に示すものだったのではないだろうか。

 なお『明石原人の発見』には、直良が発見直後に写真店で撮らせた化石腰骨の写真、自筆の松村からの手紙、同じく直良から松村への手紙、それに直良の「略年譜」も収録されていることを付記しておく。


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