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古本夜話762 芝書店、ヴェルレエヌ『叡智』、中村光夫

 あらためて『保田与重郎選集』(講談社、昭和四十六年)の第二巻を読み、彼の著書『日本の橋』が昭和十一年に芝書店から出され、その改版が十四年に東京堂から刊行されたことを教えられた。後者は棟方志功装幀の帙入小型本で、『東京堂の八十五年』に書影を見ることができる。十三年の同じく棟方装幀、北村透谷賞受賞の『戴冠詩人の御一人者』に続く、「日本浪曼派の俊鋭保田与重郎の二点は、文壇の問題作」であったと記されている。それはおそらく「日本浪曼派の時代」ばかりでなく、保田の時代を迎えていたことを告げているのだろうし、棟方とのコラボレーションは、本連載759の「新ぐろりあ叢書」などへと引き継がれていったと考えられる。
保田与重郎選集 (第二巻)

 しかしその始まりが芝書店だとは認識していなかった。芝書店といえば、昭和文学史で必ず言及される、三木清がいうところの「シェストフ的不安」の根源たる河上徹太郎、阿部六郎共訳『悲劇の哲学』、河上訳『虚無よりの創造』(いずれも昭和九年)が想起される。シェストフはロシア革命後にパリに亡命し、ドストエフスキーとニーチェ論である『悲劇の哲学』において、科学的理性や精神的理念主義などの普遍的価値観が崩壊してしまっても、人間は生きるに値するかを問い、正宗白鳥と小林秀雄からの絶賛を受けた。それはマルクス主義運動崩壊後の思想的なエアーポケットを埋めるものとして受容されたという。

悲劇の哲学 (『悲劇の哲学』、芝書店)

 ただ私たち戦後世代にとって、シェストフの『悲劇の哲学』(近田友一訳、昭和四十三年)は現代思潮社の「古典文庫」の一冊として出されていたけれど、もはやそのようなインパクトを秘めたものとして受容されていなかったと判断していい。そのこともあって、芝書店版の『悲劇の哲学』と『虚無よりの創造』を入手していない。

悲劇の哲学 (『悲劇の哲学』、現代思潮社)

 その代わりにというわけではないけれど、やはり阿部訳のニィチェ『物質と悲劇』(昭和九年)、同様に河上訳のヴェルレエヌ詩集『叡智』(同十年)は手元にあり、これらが菊判で、またその巻末広告から『悲劇の哲学』も同じだとわかる。それから後者に「芝書店刊行書」リストが掲載されているので、既述の四冊を除き、挙げてみる。正宗白鳥小説集『異境と故郷』、河上徹太郎文芸評論集『自然と純粋』『思想の秋』、小林秀雄『続々文芸評論』、アンドレ・ジイド『文芸評論』『続文芸評論』『ドストエフスキー論』、ジャック・リヴィエール『エチュード』、中島健蔵、佐藤正彰訳『ボオドレエル芸術論集』、神西清訳『チエーホフの手帖』、平岡昇、秋田滋訳『テーヌ・作家論』などである。ジイドやリヴイエールは「分担翻訳」での訳書が多数なために、省略したのだが、すでに挙げた訳者以外だけでも、記載しておくべきだと思い直したので、重ならないようにアトランダムに示しておく。

 それらは富永宗一、小林秀雄、秋田滋、飯島正、辻野久憲、今日出海、山内義雄、鈴木健郎、桑原武夫、大岡昇平、小西茂也たちで、これらのメンバーから見て、芝書店は昭和八年に創刊された『文学界』の小林と河上を中心とし、それにフランス文学者たちが合流し、出版企画が進められたように推測される。それらのことから考えても、保田与重郎の『日本の橋』の出版は組み合わせからしても意外だというしかない。

 またそれに加えて、もうひとつ特筆すべきは『エチュード』の装幀が小林秀雄となっていることだ。これは未見だが、装幀家としての小林に関する言及は目にしていないので、どのようなものなのか、一度見てみたいと思う。

 『叡智』などの奥付を見ると、芝書店は刊行者を芝隆一とし、その住所は品川区上大崎となっている。だがこのような芝書店であっても、『日本出版百年史年表』にも記載はないし、『出版人物事典』などにも立項されていない。柳田国男ほどではないにしても、本連載462でも示しておいたように、小林秀雄たちの近傍にあったはずの小出版社は、意外に思われるほどその姿をとどめていない。

 それでもかろうじてその芝書店への言及を見出したのは、中村光夫の「ある文学的回想」としての『今はむかし』(中公文庫)においてだった。中村は小林に認められ、『文学界』に「二葉亭四迷論」を連載し、昭和十一年に最初の著書として芝書店から『二葉亭四迷論』を上梓し、同じく『日本の橋』を出した保田とともに、第一回池谷信三郎賞を受賞している。その出版に至る経緯に関して、中村は芝書店から二葉亭論を中心とした本を出したいといってきたので、承諾し、装丁を青山二郎に依頼していると、すぐに校正刷が出てきた。続けてその事情を述べている。
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 仕事がちょっと早すぎるのは、出版社の金ぐりが苦しいためで、自転車の輪を回すために、なんでも本の形をしたものをだす必要から、僕の本などを出版しようとしたことは、もとより知りませんでした。
 芝書店といえば、主として仏文関係の清新な良書をいくつか出版していただけでなく、正宗氏の「異郷(ママ)と故郷」などの版元でもあり、そこからだしてもらえるのは、光栄と思っていました。それでなくても最初の著書の出版の話をきいて、その裏を勘ぐれる人は、よほどの傑物でしょう。
 僕などは校正をせかされ、いい加減に校了にされたのも(おかげで誤植だらけの本がでてしまいましたが)相手の熱意と考えるほどいい気になっていました。
 さて、内容はともかく、装釘はなかなか凝った菊半截の「二葉亭論」ができあがりました。発行部数はたしか五百部でした。

 さらに中村の言及は続き、検印紙がないので、本に直接判を押してくれといわれ、そのために作った判を持っていくと、芝書店が取次からせかされ、勝手に三文判を押して出してしまったこと、「芝書店の内情が苦しい」と聞いたこと、印税を何度も催促し、やっと半分もらったこと、それもあって芝書店からは「折角新人をひきたててやったのに、印税まで催促するとは生意気な奴」と思われたらしいことなどを書いている。確かに『叡智』の奥付の河上の判は直接押されているし、中村の証言を裏づけていよう。

 おそらく保田の『日本の橋』の出版経緯と事情も同じだったのではないだろうか。そしてほどなく芝書店は破綻し、それを受け、東京堂から改版が出されるにいたったにちがいない。
f:id:OdaMitsuo:20180213161428j:plain:h110(『日本の橋』、東京堂)


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