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古本夜話764 実業之日本社と保田与重郎『美の擁護』

 
 前回、本間久雄は保田与重郎に日本の美学を見出し、それゆえに東京堂に『戴冠詩人の御一人者』の出版を推奨したのではないかとの推測を述べておいた。そのことをタイトルが物語るように、保田は昭和十六年に『美の擁護』というエッセイ集を上梓している。
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 それは実業之日本社から刊行された一冊だが、所持するものは裸本で、しかも痛みが激しく、背文字もはがれ、著者名は消え、タイトルすらも読めない。だがその表紙はそのまま残り、その字体から、すぐに青山二郎の装幀だとわかるし、実際に本扉を繰ってみると、その名前が記されていた。これまで記してきたように、保田は装幀に関して、棟方志功とコラボレーションしてきているので、青山との組み合わせは意外であった。その事実は『美の擁護』の企画編集に『文学界』関係者が絡んでいることを示唆しているようにも思える。

 実際に巻末広告には多くの文芸書だけが並び、それだけを見れば、『実業之日本』というビジネス誌や経済書や実用書の印象が強い実業之日本社であるにもかかわらず、文芸出版社と錯覚してしまいそうになる。そこで『実業之日本社七十年史』を繰ってみると、そうした傾向は昭和十二年の『新女苑』の創刊がきっかけになったようである。同誌は『日本近代文学大事典』にも立項されているが、「若き女性の静かにして内に燃える教養の伴侶である」ことをめざして創刊され、主筆は『少女の友』の内山基が兼任し、それを神山裕一が引き継いでいる。

 そして神山が文芸書担当者となり、当初は『新女苑』の連載の作品を単行本として刊行し、その中でも横光利一の『実いまだ熟せず』はベストセラーになり、「昭和十四年ころからとみに活発になったのは出版部の文芸書出版である」とされ、『実業之日本社七十年史』は次のように述べている。

 こうした実績から「実業之日本社の文芸書」の存在がひろく世間にも認められるに従って、わが社から作品の出版に理解を示す作家も多くなり、中でも林芙美子の『青春』や石川達三『若き日の論理』などはそろそろはじまった印刷用紙の欠乏に制約されながらも、いずれも十万部以上の売上を示した。
 その他にも世間の評判となった書名を挙げると室生犀星の『つくしこひしの歌』『美しからざれば哀しからんに』『王朝』、芹沢光治良の『眠られぬ夜』『男の生涯』、林芙美子『風琴と魚の町』『織女』『葡萄の岸』、森田たま『桃李の径』『石狩少女』、川端康成『乙女の港』、太宰治『東京八景』、井伏鱒二『シグレ島叙景』、中山義秀『風霜』、高見順『花さまざま』、その他丹羽文雄、里見弴、宇野浩二、佐藤春夫、正宗白鳥、武者小路実篤などまで、当時の文壇の主要作家の作品は概ね発行している。
 一方、日夏耿之介『鴎外文学』『輓近三大文学品題』、河上徹太郎『道徳と教養』、保田与重郎『美の擁護』、亀井勝一郎『芸術の運命』、中村光夫『戦争まで』等をはじめとして文芸評論集も数多く手がけている。

乙女の港

 これは実業之日本社の昭和十年代半ばの文芸書出版の動向であるけれど、支那事変以後の文芸書出版の隆盛の一端を伝えていて、とても興味深い。同時代において、様々な文芸書シリーズが刊行されていたことは本連載でも取り上げてきたし、これからも言及するつもりだが、このような出版状況の中で、保田の『美の擁護』などの一連の著作が刊行されてきたことになる。

 エッセイ集『美の擁護』には、たまたま昭和十四年十一月の日付入りの「文士の処生について」という一編が収録され、この時代の「国民の一員」としての「市井草莽の文士」の表明となっている。そこで彼は日本やドイツの勝利を祈念しながらも、現在の文化的宣伝や日本主義理論や国策文芸の流行には異を唱え、日本の文芸の源流と伝統とは滅びを意識し、美化するという視座を崩していない。それは『後鳥羽院』などに象徴される英雄と詩人と歌心に基づき、そのクロージングの一節に表象し、ひとつの現在の体制批判へとも結びついていく。

 権力をもち地位をもち、加へて勢力をもつ者が、しかもその至誠の信念と経綸を実現し得ないといふ事実を知つたとき(しかも一つの政治観からでなく人生観に上昇した点から知つたとき)さういふ高次の絶望の自覚ののちに(ある人生観の敗退を意識して)志ある者の文芸のみちはそもゝゝ始まつたものではなかつたか。

 ここに保田の特異にしてアンビヴァレンツなポジション、すなわちイロニイが示されていることになろう。


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