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古本夜話781 ロンブロオゾオ『天才論』と辻潤

 前回のノルダウの邦訳『現代の堕落』には献辞名が省略されているが、ダイクストラが『倒錯の偶像』で指摘しているように、チェザーレ・ロンブローゾに捧げられている。それはロンブローゾたちの『女性犯罪者』(未訳)において、女性犯罪者たちが男性的な特徴を有し、それが女性退化の極端な見本、帰先遺伝の徴候にして原初の両性具有状態への没落だと示し、ノルダウに大きな影響を与えたことによっている。
倒錯の偶像

 このロンブローゾも十九世紀末思想において、精神病学者、刑事人類学者として、一つのトレンドをもたらした人物である。彼もノルダウと同じく、『世界文芸大辞典』の立項を引いてみる。
世界文芸大辞典 第一巻(日本図書センター復刻)

 ロンブローゾ Cesare Lombroso (1836-1909)イタリアの精神病学者。彼の功績は刑事人類学を創始したことにある。犯罪の原因を神経中枢の器質的欠陥性と異常性に求めて生来性犯罪者説を確立した。彼の説に基いて今日の罪刑個別化主義が実施されたものである。この外天才と精神病者との類似性に就ての精細な研究を発表した。これが当時の教育学、倫理学更に進んで文学に及ぼした影響は実に大きかった。(後略)

 これを『倒錯の偶像』にならってさらに補足しておこう。ロンブローゾは犯罪者の人類学的研究を通じ、犯罪者における一定の身体的、精神的パターンを発展させ、犯罪の原因としての隔世遺伝論を提唱し、犯罪の個別化主義に根拠を与え、従来の応報的行為刑法から行為者刑法への転回をもたらしたとされる。この学説を引き継いだのがイタリア学派と呼ばれ、彼らはイタリアのファシズムの支持者ともなっていったのである。

 このようなロンブローゾの刑事人類学の著作は翻訳されていないけれど、その代わりのように「天才と精神病者との類似性に就ての精細な研究」は日本でも刊行された。それが「文献」として挙がっている辻潤訳『天才論』で、ここで改造文庫版が示されているが、手元にあるのは大正十五年のロンブロオゾオの同訳の春秋社版である。この『天才論』の結論をいってしまえば、先述の立項に示されているように、天才の生理学と狂人の病理学には多くの共通点が見出され、それは狂人が天才となり、天才が狂人となる事実を証明している。要するに天才にしても狂人にしても、 癲癇性に属する変質的心徴を有するもので、芸術家や文学者もその類似性を帯びている半狂者といえるし、宗教家もまた同様であって人類の進歩の貢献している。そして天才とはたまたま地上に現われ、忽然と消えてしまう流星のような存在なのだと。

 しかしノルダウにしてもロンブローゾにしても、戦後に新訳は試みられておらず、後者の「天才」の比喩ではないけれど、流星のように消えてしまったと見なしていい。ただあらためて辻潤訳の出版史をたどってみると、それが大正から昭和にかけてのロングセラーであり続けたことも事実であるし、辻をめぐる謎めいた出版史も浮かび上がってくるように思われるので、ここではそれをたどってみたい。

 昭和四十五年にオリオン出版社から高木護を編纂責任者とする『辻潤著作集』全六巻と別巻が出され、その別巻の『年譜』を見ていくと、『天才論』は次のように版元を移し、刊行されていたとわかる。
年譜

1 植竹書院「植竹文庫」 大正三年
2 三陽堂書店 同五年
3 三星社  同九年
4 春秋社  同十五年
5 改造社「改造文庫」  昭和五年

 前述したように、手元にあるのは4で、5は『世界文芸大辞典』に資料として挙げられていたが、それ以前に三種類が出ていたことになる。これらはもちろん未見だけれど、1の植竹書院は本連載218、2と3の三陽堂と三星社は同227でふれておいたように、植竹書院倒産後に紙型が特価本業界の三陽堂と三星社に譲渡されていたことを告げている。ちなみにこの三陽堂と三星社が同じ出版社であることも既述している。

 辻と特価本業界の関係は定かでないが、2によってリンクしていたように思われ、ここから大正七年にド・クィンシイ『阿片溺愛者の告白』、スタンレイ・マコゥア『響影〈狂楽人日記〉』という二冊の翻訳を出している。その前者が大正十四年に春秋社から刊行されたことで、4の『天才論』も続き、さらに昭和三年に同社の円本『世界大思想全集』第二十九巻に、同じく辻訳『唯一者とその所有』の収録に至った流れが理解できる。そして5の、昭和四年の『唯一者とその所有』の改造文庫化に続き、5も同様だったと判断できよう。

 このような辻の翻訳出版史は彼が神田の国民英学会出身であることと無縁ではないように思われるし、それの翻訳収入が少ないながらも彼の生活を支えていたのではないだろうか。そうして『唯一者とその所有』を収録した『世界大思想全集』のベストセラー化によって、一年に及ぶ息子のまこととのパリ旅行を可能ならしめたのである。

 なお『唯一者とその所有』のほうは戦後になって、片岡啓治訳で、現代思潮社の「古典文庫」の一冊として刊行されている。
唯一者とその所有


  
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