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古本夜話784 飯島正他『欧米シナリオ傑作集』

 前回の河出書房の「記録文学叢書」の既刊書として、飯島正の『バウンティ号の叛乱』をと挙げておいた。飯島に関しては本連載628などでふれているように、やはり同時期に河出書房から刊行されていた『シナリオ文学全集』の責任編輯者の一人だった。その際に見ていたのは第五巻の『文壇人オリジナル・シナリオ集』だけで、それに基づき、同628を書いたが、最近になって第三巻の『欧米シナリオ傑作集』を入手している。これは映画だけにとどまらず、日本の翻訳史においても興味深く、『シナリオ文学全集』としては本連載で二度目の言及となるけれど、取り上げておきたい。

 『欧米シナリオ傑作集』に収録されているのは次の四作である。訳者とともに示す。

1 ジュールス・ファースマン 『モロッコ』(内田岐三雄訳)
2 ルネ・クレール 『巴里祭』(飯島正訳)
3 ロバート・リスキン 『或る夜の出来事』(清水俊二訳)
4 ジャック・フェデエ、シャルル・スパーク 『女だけの都』(姫田嘉男訳)

モロッコ f:id:OdaMitsuo:20180409152656j:plain:h110 或る夜の出来事 女だけの都

 いずれも戦前公開の欧米の名作であり、私たち戦後世代にとっても、トーキー映画の古典的作品と見なしてかまわないだろう。だが昭和四十年代までは、これらを観るためにはそれを上映する映画館に絶えず注視する必要があった。それを考えれば、昭和五十年代以後のビデオから始まり、DVDに至る映画インフラ環境は夢のようでもあり、私もこの四作はDVDで所持し、繰り返し観ている。

 それゆえに、この一冊を手にして、それぞれのシナリオを参照し、もう一度観てみたいという誘惑に駆られている。『巴里祭』は「七月十三日/パリ/国際日の準備に忙しい……」という「サブタイトル」が示され、「エクラン一ぱいに張つた布地。揺れる。遠離る。(それが旗であることが分る。)下町の建物の中庭である」と始まり、それに伴う音声の指定も記されている。

 現在であれば、それこそただちにDVDをセットして、このイントロダクションを確認できるけれど、昭和十年代の読者たちは自分たちの映画体験を反芻しながら読んだのだろうか。口絵写真にはこれらの四作のモノクロシーンが一枚ずつ使われ、それらが映画とシナリオの架け橋の役割を果たしていたようにも思われる。おそらくは観ることも読むことも、それらのパラダイムが想像以上に変わってしまったことに留意すべきなのはいうまでもあるまい。

 それとともに、これらのシナリオはどのようなテキストに基づいて翻訳されたのかという問いも発せられよう。そのことに関しては飯島が巻末の「跋」において、次のように明言しているし、それがこの巻の特色だと考えていい。

 この四篇のシナリオは、ことごとく、信頼すべきオリジンを持つてゐることを特にこゝに附記したい。これらは、従来日本に於いて行はれた採録(映像を映しながら書きうつした)のシナリオではなく、作者から直送されたシナリオである。それだけに、拠つてもつてシナリオに対する論議をなし得る唯一のテクストであることを誇りたい。

 そして具体的にそれらの「テクスト」の入手経路を挙げているので、簡略に示しておこう。1は内田がニューヨークのパラマウント本社で入手したもの、2はルネ・クレールから岡田真吉に送られてきたもので、多くの鉛筆による書き込みがあるとされる。ちなみに岡田は飯島と同様に、東京帝大仏文科出身の映画評論家、翻訳者である。『或る夜の出来事』はニューヨークの出版社ダブルディ・ドウランの「四つ星スクリプト」シリーズ収録のもの、4はジャック・フェデエから東和商事映画部を通じて贈られたものとされる。

 しかし『巴里祭』に限って飯島も断っているように、フランスでも映画に関する総合的な術語辞典が未刊行のこともあり、アルファベットの頭文字、「遠近」の欄の「大写し」といったもの、「装置」や「影像」などの用語も明確に把握できなかったという。それは『女だけの都』にとっても同様だとされている。やはりシナリオの翻訳は風俗、生活習慣などは映像によって確認するか、もしくは想像ができるにしても、テクニカルタームとしての映画技術用語は、洋画と邦画の相違もあって、その把握と理解が困難だったのであろう。

 シナリオの翻訳に当たっては双方の知識が必要とされるが、フランスにもまだそうした映画術語辞典が出されていなかったことも原因だったようだ。飯島はそれがLa Cinématographie Française から近刊予定だと述べているが、実際に出版され、日本へと送られてきたのであろうか。

 そうした『巴里祭』に比べて、『或る夜の出来事』はハリウッド映画であるからか、映画術語はわかりやすかったようで、用語一覧が掲載されている。そして飯島は「跋」を、「しかし、そんなものはなくても、読者諸君は有能な映画眼に拠つて、正確にこの貴重なる資料を読んで下さることゝ信ずる」と結んでいる。この時代にはそれこそ「映画眼」という用語が使われていたことを教えてくれるのである。


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