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古本夜話788 ゴビ沙漠学術探検隊編『ゴビの沙漠』と目黒書店

 前回、阿部知二の『北京』において、支那が有史以前のゴビ砂漠にたとえられていることにふれ、それで閉じた。
実はそれから数日後、まったく偶然に浜松の時代舎で、ゴビ沙漠学術探検隊編『ゴビの沙漠』を見つけ、購入してきたばかりなのである。つまりここで書いておくようにとの古本のおぼしめしだと判断するしかない。これは四六倍判、上製一九〇ページ、函入の一冊だが、そのうちの一四二ページが写真で占められ、昭和十八年九月に目黒書店から刊行されている。本体の表紙カバーを外してみると、黄色ジュート装で、写真集を兼ねた豪華本と見なせよう。これもまた戦時下の写真を含んだ大型本に分類できようが、これだけアート紙を使った出版は異色であろう。しかも初版二千部で、定価は十四円である。

 「序」を寄せている多田文男は『現代人名情報事典』に地理学者としての立項が見出され、辻は東京帝大理学部助教授と文部省資源科学研究所書院を兼任していたと思われる。それをふまえて「序」を読むと、そのニュアンスが伝わってくる。多田は中央アジアの沙漠地帯が「東亜文化と西洋文化との緩衝地帯」にして、「大東亜共栄圏の防共壁」と見なし、「この地帯の確保」が重要不可欠とし、次のように述べている。

現代人名情報事典

 私共学術研究にたづさわる者は、先づこの乾燥した沙漠地方を純学術的に調査し、その事態を究め、更に進んではこの地方の土地利用及び地下資源・有用実用植物・有用動物等の基礎的研究を行ひ、以てこの地方の経済開発に資すべきである。沙漠地帯の経営は、風土、文化に対する周到な科学的知識の上に立つて甫めて行はるべきであるからである。

 ここではゴビ沙漠の大東亜共栄圏への参入と植民地化が提唱され、それが科学的知識に基づくべきだとされていることになろう。そのような目的から、昭和十五年に多田を団長とする東京帝大中心の学術調査団が組織され、二ヵ月にわたって内蒙古渾善達克(コンゼンタール)沙漠地帯西部地方、十六年には同沙漠中央部を横断し、砂 (ママ) 丘の実態を究めたとされる。

 それに加えて、二回目の探検の場合、読売新聞社に報道班、写真班、さらに映画班の派遣を求めたところ、それが実現し、新聞紙上にも発表され、映画も『ゴビ沙漠探検』として映画館で上映され、「乾燥アジア」への一般的認識の普及に貢献したとされる。それで巻末の「ゴビ沙漠探検日誌」を書いている澤壽次が読売新聞記者で、写真も主として読売新聞社写真班の宮内重蔵によるものゆえに、奥付の著作者はゴビ沙漠学術探検隊とあるけれど、その代表者が澤となっている事情を了承することになる。写真の中でも、「砂(ママ)丘地帯」は五三ページから一〇五ページに及び、ゴビ沙漠の様々な砂丘の姿、沙漠とはいっても、そうではない森や川、植物や動物なども映し出している。

 巻末の折込地図には探検隊が自動車(トラック)で蒙古を経て、それから牛車で、「砂丘地帯」を横断する行程がたどられている。また蒙古の写真の中には蒙古相撲と力士、それらを見物する徳王一族の姿もあり、相撲を通じての蒙古とのつながりが、新聞を通じてプロパガンダされた事実を伝えているのだろう。

 しかし本来であれば、これは読売新聞社協賛の探検であったわけだから、同社からの出版が当然であっただろうに、どうして読売新聞社からの刊行とならなかったのだろうか。それは多田が「序」で、「上梓するに当り、終始御高配を下さつた目黒書店主目黒四郎氏並びに同店地主光太郎氏に深甚なる感謝」と述べているように、多田、もしくは探検隊プロジェクトが読売新聞社よりも、目黒書店とのほうが関係が深かったことをうかがわせている。目黒四郎は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。
出版人物事典

 [目黒四郎 めぐろ・しろう]一八九七~一九七〇(明治三〇~昭和四十五)目黒書店社長。新潟県生まれ。早大商学部卒。長岡市の目黒書店目黒十郎の弟。目黒甚七も創業の目黒書店に入り、甚七の養子となる。戦時中、二代目社長に就任、出版新体制の結成準備委員に選ばれ、日本出版文化協会監事、日本出版配給株式会社監査役に就任、当時、有斐閣の江草四郎、文化協会理事田中四郎とともに若手ホープとして出版新体制三四郎と呼ばれ活躍した。終戦後、公職追放になり、業績もふるわず、息子謹一郎を三代目に立て、鎌倉書房の雑誌『人間』を譲り受け発行を続けたりしたが(昭和二五・一~二六・八)、社業回復はならず、目黒書店の姿は出版界から消え去った。日本出版クラブ評議員もつとめた。

 この立項から目黒四郎が大東亜戦争下の出版新体制下にあって、飛ぶ鳥落とす勢いにあったとわかる。それゆえに日配の中枢にもいたことから、配給の実力者であり、それに『ゴビの沙漠』の編集や製作の主導権は読売新聞社側にあったと判断できようが、その判型や内容の特殊性から見ても、目黒書店に版元を譲るしかなかったに相違ない。それに社員の地主も広く関与していたと考えられる。

 なお目黒書店は明治二十四年に創業し、当初は取次だったが、学術図書、中学教科書、教育雑誌の分野を開拓して出版社も営み、創業者目黒甚七は大正時代には東京出版協会会長、昭和七年には全国書籍商組合連合会会長、十二年からは東京古籍商組合長の要職も務めている。その老舗も敗戦後の混乱の中で、消滅してしまったことになる。出版物の命の長さに比べ、出版社の寿命は驚くほど短い。


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