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古本夜話789 『阿部知二自選集』と「野の人」

 本連載785で、『阿部知二自選集』にふれ、河上徹太郎の証言を引き、同787において、昭和十年代半ばの「間違ひなく売れる」四人の作家の一人としての阿部の『北京』を紹介しておいた。他の三人は島木健作、石川達三、丹羽文雄だが、島木は正続『生活の探求』というベストセラー作家、石川と丹羽は戦後も昭和四十年代までは「間違ひなく売れる」作家であり続けたので、河上の言にも納得できる。
生活の探求 (『生活の探求』)

 しかし阿部知二に関しては、こちららの読書史とクロスしておらず、リアルなものではない。どちらかといえば、阿部は私たちの世代にとっては、作家というよりもボードレール学者の阿部良雄の父親で、メルヴィル『白鯨』(岩波文庫)などの翻訳者、英文学者の印象が強い。また戦前において、春山行夫のリトルマガジン『詩と詩論』から生まれた「現代の芸術と批評叢書」の一冊としての『主知的文学論』(厚生閣、昭和五年)の著者でもあった。
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 だがあらためて考えれば、『全集叢書総覧新訂版』にも掲載がないので、何巻出されたのかは不明だが、昭和十五年に河出書房から『阿部知二自選集』が刊行されたことは、彼が「間違ひなく売れる」作家だったことを証明しているのだろう。私が入手したのはその第1輯『野の人』で、七作の短編、中編からなり、装幀は春山行夫が担当している。ただ手元にあるのは裸本なので、カバー表紙がどのようなものだったのかわからない。阿部の「あとがき」に春山の「気持のいい装幀」に対する謝辞が示され、それから河出書房の「桑原君」との共同編集も明記され、「もう一冊ほど出来さう」だとの言も見えている。
 
 冒頭の「日独対抗競技」は昭和四年に『新潮』に発表された阿部の文壇デビュー作で、「九月。シベリアは灰色に冷却した」という書き出しはモダニズムや新感覚派の影響を想起させ、テーマもナラティブも時代背景とクロスして興味深い。だがやはりここではタイトルとなっている「野の人」を紹介すべきだろう。

 この中編は作家の「私」は知人として招かれた結婚式で、新郎の弟である旧知のMに出会い、「Tの発見」の物語を聞かされる。Mは地方の豪家に生れたが、京都と東京の大学でドイツ文学を勉強し、周囲を驚かせながら、小学校の教員、それも貧しい子供がいいといって江東の特殊小学校を志願した。その秋にK市の絵画展覧会が会堂で開かれ、Mも学生時代に絵を描いていたことから、 そこに入ってみると、片隅に路面と建物を描いた小さな絵があり、すっかり魅せられてしまった。Mはその絵がほしくなり、それを描いた村の農夫のTを訪ねていく。Mは驚くTに、その絵に感心したので買いたい、他にもあれば見せてほしいといった。Tは材料もろくに買えないし、描く暇もないといいながらも、数枚の絵を出した。Mはそれらにも「或る力の芽」を感じた。しかし年老いた両親や「気のふれたやうな弟」と小さな家に住み、その境遇の中で絵を描こうとしているTのことが痛ましく思え、東京から絵具などの材料を送ることにした。

 この励ましは「村に埋れて孤独な手探りで描いていた農夫の熱情」に火をつけたことから、MはTを東京に呼び、小学校の俸給で二人の生活をまかない、Tに絵を描かせること、いい絵を見せることに集中させると、Tの腕は目に見えて伸びていった。それが結婚式でMが「私」に語った「Tの発見」の物語だった。

 それで終わったのではなく、Mは「私」のところに絵を見せにもきた。それらは「一種の力を含んだ光線のやうなもの」を放っていた。そして「私たちを動かすものはほんとうにいつわりのないせきららなムクリ出しのたましい」だと書かれたTの手紙も読む。そうして「私」もMの熱情に感染したらしく、二人の下宿を訪ね、カンバスに向かうTの姿を見た。「私」はその夏に書いた長編小説『幸福』の中に、この二人をモデルとして取り込み、Mの「なだらかな自由な心」とTの「強く素朴な本能」を描いたことで気まずい重苦しさが生じ、往来が途絶えてしまったのである。この『幸福』は本連載782の「書きおろし長篇小説」の一冊として出されているが、読むに至っていない。
f:id:OdaMitsuo:20180504140459j:plain:h120(『幸福』)

 それから二年後、「私」は人づてにTの死を聞き、彼らのことを書いたことに加え、その病気を助けなかったことで二重の罪を感じた。その翌年に省線電車の中で、偶然にMと出会い、Tの死という悲しい事実が二人の歩み寄りを促した。そしてTの残された四十枚ほどの絵をMの家に見にいき、Tの死の事情を説明されたのである。その頃MとTはさびれた農漁村の面影が残る船堀といふ部落の藁屋の離れに住み、Mは小学校に通い、Tは絵に専念していた。しかしこの船堀の生活も、Mの結婚と兄の出征による転居の必要もあり、引き払うことになり、Tも甲州の村に引き上げることになった。

 村に帰ったTはMと離れたことによって、ものに関しての表現欲としての「もえふるえたちあがりくるふ」状態が始まったと手紙に書いてきた。それが功を奏してか、Tの絵は評価され始め、再びMと一緒に上京することになったが、Tはすでに病を悪化させ、上京は不可能となった。またしてもTからの手紙が引用され、彼の絵の背景にあるのは、弟を絵によって生かそうとする決意で、それが表現にかなうとの告白を知る。それを表象するように、残された絵には「狂人」というタイトルが付されていた。それをコアとしてTの絵は「もつと深い複雑な謎」を秘め、成立していたことになる。

 巻末の「制作年表」によれば、「野の人」は昭和十五年に発表されている。おそらく阿部の身近な人物たちをモデルとする作品だと考えられるが、大東亜戦争下に入りつつある社会状況との関連も含まれているのだろうか。 


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