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古本夜話790 河出書房と『新世界文学全集』

 河出書房は昭和十年代になって、本連載628や783で既述しておいたように、多くの全集類の刊行を始めている。しかもその特色は外国文学の翻訳に顕著だ。それはこれまでもふれてきたが、河出書房が社史や全出版目録を刊行していないので、詳らかな経緯と事情は不明である。ただそれに関してひとつだけいえるのは、河出孝雄が二代目を継いだことに起因している。

 河出書房は岐阜市で出版と取次を営んでいた成美堂が東京に日本橋支店を設けた際に、河出静一が上京して始め、独立して創業されている。当初は成美堂、後に河出書房として、農業、数学、理学、地理学、国文学書を出していた。本連載754で挙げた福来友吉『催眠心理学』は成美堂からの刊行である。そして昭和五年頃に養子の孝雄に受け継がれたとされる。その河出孝雄の『出版人物事典』における立項を引いてみる。
出版人物事典

 [河出孝雄 かわで・たかお 旧姓・島尾] 一九〇一~一九六五(明治三四~昭和四〇)河出書房社長。徳島県生れ。東北大法律学科卒。河出書房創業者河出静一の婿養子となる。一九三〇年(昭和五)ころから全面的に経営を担当、ことに書き下ろし長篇小説や翻訳全集などの文芸書に独自の分野を開いた。戦後、四八年(昭和二三)株式会社に組織を改め社長に就任。五〇年出版した笠信太郎『ものの見方について』は大ベストセラーとなり、『現代日本小説大系』全六五巻、『世界文学全集』全四〇巻など戦後の文学全集の先陣を切った。また、雑誌『知性』『文芸』などを創刊、復刊、ジャーナリズムに新風を送った。しかし、五七年(昭和三二)三月倒産、新社として再興した。六八年(昭和四三)再び倒産したが再建した。
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 この立項は河出孝雄が新たな文芸書出版の立役者だったことを裏づけているし、ここに挙げられている「書き下ろし長編小説」本連載782ですでに言及したとおりである。したがって今回は「翻訳全集」のうちの『新世界文学全集』を取り上げてみたい。
新世界文学全集

 だがそうはいっても、『新世界文学全集』は全巻を見ておらず、実際に古本屋での大揃いに出会ったことがない。それゆえに手元にあるのは第十一巻の一冊だけで、それにはシチュードリン『ゴンヴリョフ家の人々』(湯浅芳子訳)、コロレンゴ『森はざわめく』(上田進訳)が収録されている。管見のかぎり、この『新世界文学全集』への言及は、矢口進也の『世界文学全集』(トパーズブレス、平成九年)において見出されるだけである。これは明治から昭和の戦後にかけての「世界文学全集」の明細も含めた初めての研究ガイドであり、労作といっていいだろう。私にしても、かつてこの矢口の著作に触発され、こうしたかたちで「昭和円本全集」を編むことができればと夢想したりしたことを思い出す。

世界文学全集

 それはともかく、矢口は『世界文学全集』において、「河出書房の新世界文学全集」という一章を設け、これが戦前の最後の世界文学全集で、昭和十五年に企画が発表され、予約募集が始まったと述べている。そしてその構成と体裁は全二十四巻、四六判、頒価一円八十銭、厚表紙、箱入特製本は二円三十銭とある。手元の第十一巻を確認してみると、後者の特製本で、第七回配本、しかも「予約頒価」が謳われている。前者の普及版は未見だし、わからないけれど、こちらのほうは円本と同様の予約販売システムで刊行されたことになる。

 矢口はこの時代の出版状況に関して「物価等統制令が公布されて物資はきびしく統制され、国民生活も日に日に窮屈になっていった時期であり、このような全集を出版すること自体、かなり困難な時代」への突入を指摘している。そのような時代に出されたことが、この『新世界文学全集』をほとんど見かけない原因となっているのかもしれない。

 続いて矢口はその全二十四巻の明細をリストアップしているのだが、それは彼も「内容見本」によるとし、全巻を見ることができなかったことも考えられる。ここではそれを挙げられないので、必要とあれば、同書に当たってほしい。実際に第二巻のメルヴィル『白鯨Ⅱ』(阿部知二訳)その他は第一巻にそのⅡも収録されたこともあって、欠巻のままで、昭和十八年二月に全二十三巻として完結しているようだ。

 『新世界文学全集』の特徴は巻数が少ないけれど、主要な長編小説に同時代の作家の短編を配置していることだ。また国別に見ると、当然のことながらアメリカ文学は先の『白鯨』だけで、ショーロホフ『開かれたる処女地』(米川正夫訳)やワッサーマン『若きレナーテの生活』(国松孝二訳)などのソ連やドイツ文学が、現在から見ると目を引く。誰が企画編集したのかも不明だが、それが大東亜戦争下の世界文学全集の在り方を象徴しているのかもしれない。

 それでも矢口もいっているように、「よくこんな時期に世界文学全集が出ていたものだ、と感心したくなる」し、河出書房が戦後にいち早く世界文学全集に着手したのは、「困難な時期に世界文学全集を出したという自信」に基づいているのではないかとの指摘に同感する。そのような戦前の出版史があるゆえに、私たちは昭和三十四年から刊行され始めていた河出書房の『世界文学全集』グリーン版に出会うことになったのだと了解するのである。
新世界文学全集


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