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古本夜話800 白水社『吉江喬松全集』とゾラ

 前回の辰野隆『仏蘭西文学』の企画の範となったのは、昭和十六年に刊行された『吉江喬松全集』だったと思われる。これはその前年に亡くなった吉江の一周忌に出されたもので、当初全六巻予定だったが、好評、もしくは収録論稿などが増えたためか、十八年に全八巻で完結している。辰野の『仏蘭西文学』上巻はその後に続いているのである。

f:id:OdaMitsuo:20180616084750j:plain:h120(『仏蘭西文学』上、昭和十八年初版)吉江喬松全集

 それはさておき、『吉江喬松全集』は西條八十、日夏耿之介、山内義雄、小林龍雄、佐藤輝夫、新庄嘉章による編纂で、辰野はその内容見本に「吉江文学の全風景」、日夏は「意味深到なる全集」という一文を寄せている。そうした言葉にたがわず、会津八一が題檢を担当し、それが白抜きとなった函はシックで、そのA5判の装幀は交織麻布を用い、本文は五号組みとなっている。

 装幀や造本にしても内容にしても、この全集は大東亜戦争下に出されたとは思えないほどの品位を保ち、吉江の人柄をしのばせ、その仕事と業績をたたえているかのようだ。いってみれば、それは吉江が早大仏文科において、東京帝大仏文科における辰野のような役割を果たしたことにもよっているのだろう。さらにまた吉江孤雁としての詩や文集、自然美論なども挙げられるし、この『吉江喬松全集』にはそれらも収録されている。

 それからこれは拙稿「出版社としての国木田独歩」(『古本探究Ⅱ』所収)でもふれ、吉江の言葉を最初に引いておいたように、彼は独歩が興した出版社の独歩社で、雑誌『新古文林』の編集者を務めていた。そのような編集者の系譜を継いでか、吉江は昭和九年に『モリエール全集』、十年に本連載187などで取り上げ、ずっと参照している『世界文芸大辞典』を、いずれも中央公論社から企画刊行している。
古本探究Ⅱ  世界文芸大辞典 第一巻(日本図書センター復刻)

 また当然のことながら収録されていないけれど、多くの翻訳があり、それはフランス文学だけでなく、ロシア文学や英文学に及んでいる。だが私にとって吉江は、これも本連載188でふれているように、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の第一巻『ルゴン家の人々』(『ゾラ全集』1、春秋社、昭和五年)の訳者に他ならないし、それまでの英語による重訳からではなく、フランス語原書からの翻訳を実現させるに至ったのである。そしてあらためて、「エミイル・ゾラ」や「『ルゴン・マカアル』叢書」(第五巻所収)を読むと、吉江が同時代において、ゾラと「ルーゴン・マッカール叢書」に最も通じていたのだと認識させられる。それもあって、辰野は『仏蘭西文学』の中で、ゾラにふれていなかったと了承する。

 それゆえに吉江のゾラ理解は凡庸なものではなく、「エミイル・ゾラ」の中で、「決して遺伝に終始する如き宿命論者ではない」とし、「意識的努力」によって「科学が命ずる進化の観念を現実の中に打ち建てんとした」とし、次のように述べている。

 そして仏蘭西革命の直後に、一群の学徒によつて造られたイデオロジイIdéologie即ち観念学もいふべきものが、一方にソスィオロジイSociologieとなって組織立てられて行きつつある間に、ゾラにおいて初めてそのイデオロジイは文芸的表現を取るやうになつて来たのである。これがゾラの自然主義である。史実的に言へば、イデオロジイの文芸表現はスタンダアル、バルザックを通じてゾラに至つて最も明らかになつたと言つて差し支へないのである。

 バルザックの時代はまだ資本主義が成熟しておらず、鉄道網も全国に及んでいないし、産業も金融も大規模、大資本を形成していなかった。だがゾラの時代を迎え、大都市の発達に伴い、第二帝政期のブルジョワジーと資本主義の隆盛は、必然的にプロレタリアを台頭させる。吉江はそれを自らが訳した『ルゴン家の人々』のスィルヴェルとミエットに象徴させ、そこにこの「叢書」の起源を求め、ルーゴン=マッカール一族を社会に向かって解き放ったと見て、「当初」のそれぞれの作品にも言及している。

 そこでゾラは一八七一年から一八九三年に亙る二十二年間に、「第二帝政治下における自然的及び社会的の歴史」として『ルゴンの財産』(『ルゴン家の人々』)から『パスカル博士』(中略)にいたるまでの『ルゴン・マカアル』の二十巻を書き上げたのである。これはルゴンとマカアルとの二つの家族の奇怪な結合から次第に一大家族が発生し、それが第二帝政といふブルジョワズィスムの権化の如き政治及び経済組織の中で、如何に発生し伸展して行くかを実験的に研究した報告の如きものである。大地から発生した一本の樹が或る一定の風土天候などの自然的条件のもので伸展し、その枝々で様々な状態を呈するのを研究すると同じことである。百姓一揆もあれば鉱山のストライキもあり、獣のやうな生活をする農民もあれば、都会地の小商人等のずるさもあれば、富めるブルジョワの懶惰もあれば、貴族社会の放縦な生活も、第二帝政期の野心的政治家も、学者も、美術家の群も、奇蹟を夢見る少女も、僧職の虚構も、女優も売春婦も、あらゆる階級を貫くと共に、場面からいへば南部のプラッサンを出発地として、首都巴里の中腹を抉り出し、北はノルマンデイまで及んでいるのである。全く生きた現代歴史であると共に、ブルジョワズィスムの社会機構の根原も欠点も完全に指摘してゐるのである。

 私はこの「叢書」の半分に当たる十作を翻訳していることもあり、つい長い引用になってしまった。これが昭和四年におけるゾラと「叢書」理解であり、卓抜にして簡略な視座といえる。なお先に示したように、「『ルゴン・マカル』叢書」においては具体的にそれぞれの作品と内容に及び、「奇蹟を夢見る少女」の物語を『夢想』と読んでいる。私もそれまで『夢』とされていたこの作品を翻訳するに当たって、『夢想』というタイトルを採用しているので、吉江の見解と同様であることに気づいた次第である。

夢 (『世界文学全集』19、新潮社) 夢想


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