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古本夜話802 メエテルリンク『貧者の宝』とマーテルランク

 前回に続いて、吉江孤雁の翻訳も一冊手元にあるので、それも書いておきたい。それはメエテルリンクの『貧者の宝』で、大正六年に文庫判上製本で出され、入手しているのは大正十一年十二版である。この判型は『新潮社四十年』によれば、こうした小型本は当時のブームだったようだ。

そういえば、この『新潮社四十年』には吉江喬松が「新潮社四十年と佐藤社長」を寄せている。そこで吉江は新潮社がまだ麹町にあった頃、自分が佐藤氏と会ったのは三十年前で、故人となった親友中澤臨川の文集のことで訪問した時だったと述べ、それから翻訳の出版、『新潮』への寄稿、また「現代仏蘭西文芸叢書」「海外文学新選」「文豪評伝叢書」「文学思想研究」「世界文学講座」、及び『世界文学全集』に直接関係したと記している。

 そこで所収の「新潮社刊行図書年表」を繰ってみると、大正四年のところに、中澤臨川『破壊と建設』『臨川論集』『タゴールと生の実現』が見出され、三冊が続けて出されているとわかる。そのことに新潮社がまだ麹町にあった頃との証言を重ねると、新潮社が牛込区矢来町に移るのは大正二年七月のことだから、吉江はその前に訪ねたのであろう。さらに中澤の著作の三冊の上梓事情を考えれば、大正に入ってからのことだと推測される。それを機として、大正六年の『貧者の宝』の翻訳が刊行に至ったと見ていい。そうした意味において、この孤雁名義の翻訳は、それ以後の吉江と新潮社の直接的な関係の始まりを示す記念すべき一冊ともいえるのである。

 ただ吉江とメエテルリンクの結びつきは意外に思えるけれど、メエテルリンクは時代にあって、流行だったと考えられる。やはり同時代に冬夏社から『マーテルリンク全集』(鷲御浩訳)、佐藤出版部からは『メエテルリンク傑作集』(村上静人訳)も出され、戯曲「青い鳥」に至っては、これも新潮社の『近代劇選集』を始めとして、多くの翻訳が刊行されている。そのような翻訳流行作家として、スウェーデンのストリンドベルヒも挙げられるだろうし、実際に新潮社は大正十二年に『ストリンドベルヒ小説全集』、岩波書店も『メエテルリンク全集』を刊行七している

 メエテルリンクに関して、吉江の責任編輯による『世界文芸大辞典』では、ベルギーの劇作家、思想家マーテルランクとして写真入りで立項され、フランスに移り住み、一九一三年にノーベル賞受賞とある。それは大正二年のことだから、日本での翻訳流行の契機になったはずだ。だがその立項は長いので、『貧者の宝』に関係する部分だけを引いてみる。
世界文芸大辞典(日本図書センター復刻)

  マーテルランクの思想は三つの時期に画される。フランドルの神学者Ruysbroeck l’ Admirableや、独逸の詩人ノヴァリス、米の哲人エマーソン、英の史家カーライル達の汎神論的なミスティシスムの影響を受け、運命の神秘、不可解な力の前に人間の無力を悲しむ他なかつた初期(『貧者の宝』)に次いで、運命の前に徒らに摺伏する事を止め智性を意志に頼つて誇らかに運命に直面しようとする中間期(『智恵と運命』)を経、更に積極的に事実の科学的観察により、人間の理性に照らして自然と生活の神秘を探求しようとする後期に至り、動物の事態、植物の神秘、偶然、死、無限等々の飽くなき研究、瞑想に耽つた。『マレーヌ姫』『モンナ・ヴァンナ』はこの初期と後期を代表する劇作である。常に深い瞑想から滲み出る様な文章は清純で暗示に富み影像と詩美を湛へ、極めて魅惑的だ。思考を内的な秘奥の領域に向けた点で全世界に深甚な影響を及ぼした。その点『青い鳥』の効果の如き単に童心の世界に止まるものではあるまい。(後略)

 この解説によって、「沈黙」などの十編からなる『貧者の宝』(Trésor des Humbles)がマーテルランクの初期の著作だとわかる。また新潮社から『モンナ・ヴンナ』『マレエヌ姫』(いずれも山内義雄訳、大正十四年)が出されていることも記しておこう。それとともに本連載100、及び拙稿「水野葉舟」と『心霊問題叢書』」(『古本探究3』所収)でふれた「同叢書」の中に、メーテルリンク『生と死』(水野葉舟訳、大正十年)の一冊が収録されていた事情を了承するのである。それはマーテルランクの後期の位相だったことになる。
古本探究3

 さらに付け加えて、『貧者の宝』の巻末一ページ広告として、大正十一年刊行のグリアスンと日夏耿之介著『近代神秘説』が掲載されている。そこには「世界現代三大神秘家の一人として、マアテルリンク、ベルグソンと併称せらるゝグリアスンの処女作」に、日夏がグリアスン小伝と長論文「欧州神秘思想の変遷」を併録したものとされる。これは確か昭和五十年代に牧神社から復刻され、メーテルリンクも工作舎から『蜜蜂の生活』(山下知夫訳)などの新訳が出されていた。この現代を迎えようとする時代シーンにおいて、所謂「近代神秘説」が、幻想文学やオカルチスムとともに再び召喚されようとしていたのである。

蜜蜂の生活の誕生と死 近代神秘説 (『近代神秘説』、牧神社復刻)


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