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古本夜話811 ヴァレリー『詩学序説』と河盛好蔵

 前回の林達夫『文芸復興』の戦前版が巻末広告に掲載されている一冊を入手している。それは昭和十三年に小山書店から刊行されたポール・ヴァレリーの河盛好蔵訳『詩学叙説』で、菊判一一四ページ、函入の堅牢にして瀟洒な本といっていいだろう。巻末広告には林の著書の他に、アンドレ・ジイド『思索と随想』(山内義雄他訳)、バンジヤマン・クレミウ『不安と再建』(増田篤雄訳)、カルル・フオスレル『言語美学』(小林英夫訳)などのフランス文学関係書も見えている。しかしそれらの翻訳書については小山久二郎の『ひとつの時代』(六興出版)の中でも語られておらず、出版経緯と事情は詳らかでない。

f:id:OdaMitsuo:20180730170818j:plain:h120(『文芸復興』)f:id:OdaMitsuo:20180806104908j:plain:h120(『詩学序説』)f:id:OdaMitsuo:20180806111323j:plain:h120(『ひとつの時代』)

 『詩学叙説』はヴァレリーがコレージュ・ド・フランスの教授に就任し、「詩学」講座を創設した第一回の講義筆記の翻訳で、その「序文」と「詩学の講義」、及び付録としての「支那の詩」から構成されている。ヴァレリーの翻訳としては『詩論・文学』(堀口大学訳、第一書房、昭和五年)、『文学雑考』(同訳、同十年)、『ヴアリエテⅠ』(中島健蔵他訳、白水社、同七年)、『テスト氏』(小林秀雄訳、江川書房、同七年)などに続くもので、早いうちの紹介ということになろう。本連載598の『世界文豪読本全集』の一冊として、佐藤正彰の『ヴァレリイ篇』が編まれたのも、『詩学叙説』と同じ昭和十三年である。また翌年には『ヴァリエテⅡ』やアンドレ・モーロア『ポール・ヴァレリイの方法序説』(平山正訳)も白水社から出され、それらを機として、十七年の筑摩書房の佐藤を中心とする『ポオル・ヴァレリイ全集』が企画されていったと思われる。
ポオル・ヴァレリイ全集 (第7巻『精神について』)

 それはさておき、『詩学叙説』の「序文」と「詩学の講義」は文学史を「《文学》を生産もしくは消費するものとしての精神の歴史」として捉えた上で、「精神の作品」を講じたものであり、興味深いのだが、ヴァレリー的晦渋さに包まれ、長きに渡る言及を必要とする。そのことと訳者の河盛を取り上げたいこともあり、「支那の詩」にふれてみたい。これはリヤン・ツオン・タイ(梁宗岱)の仏訳『陶淵明詩集』に寄せられたヴァレリーの序文で、そこで陶淵明の「帰去来の詩」の仏訳の一節「私は窓にもたれて/楽しく愛する枝を眺めてゐる……」、あるいは「夕べの影が濃くなつてきた。/けれど私は立ち去りがてに孤松を愛撫してゐる。」にオマージュが捧げられている。

 実はここでふれたいのは、この河盛訳の「支那の詩」が同人雑誌『四季』に発表されたことである。『四季』は『日本近代文学大事典』に立項され、戦後の第三、第四次まで触れられているが、いうまでもなく、第一次、第二次に関してである。第一次は昭和八年に堀辰雄編集で、四季社から全二冊が出されている。その第二冊目にはヴァレリー『テスト氏の航海日記抄』が掲載され、注視を得たようだ。これはヴァレリー・ラルボーやレオン=ポール・ファルグたちのリトルマガジン『コルメス』を範としたもので、その創刊号にはラルボーがあのすばらしい『罰せられざる悪徳・読書』(岩崎力訳、みすず書房)を寄せている。なお同誌を含むパリのリトルマガジン状況に関しては、拙稿「オリオン通りの『本の友書店』」(『ヨーロッパ本と書店の物語』所収)を参照されたい。

罰せられざる悪徳・読書 ヨーロッパ本と書店の物語

 第二次は昭和九年から一九年にかけて、月刊誌として全八十一冊が出され、こちらは堀の他に三好達治と丸山薫による編集の詩誌で、春山行夫の『詩と詩論』の系譜を引き、モダニズムと西欧的詩法に基づく抒情詩の確立を目ざしたものとされる。後半になって、河盛好蔵も同人に名を連ねているので、その関係から、掲載号は不明だけれど、「支那の詩」の翻訳を載せたのであろう。それゆえに小山書店から『詩学叙説』が出されたのは、この『四季』同人と小山書店とのつながりによるものと思われる。

 私見によれば、河盛にとって『四季』との関係は翻訳者としてばかりでなく、出版企画者や編集者としての役割を深めていったようにも思われる。彼は昭和三年から五年にかけてフランスに留学し、四年にプレヴォー『マノン・レスコー』(岩波文庫)、七年にジャン・コクトオ『山師トマ』(春陽堂)、翌年に『フランス詩第一歩』を刊行している。それとともに『詩学叙説』の河盛の「はしがき」として、「この翻訳は、先頃締結された日本文芸家協会とフランス文芸家協会との間の紳士協定に基いて、翻訳権を獲得した」とあるのは、彼がそのような仕事にも関わっていたことを意味していよう。

マノン・レスコー

 これらは第一次『四季』の時期だし、その一方で、昭和六年に河盛は立教大学予科教授となり、十八年まで勤めた後、その年の四月から十二月にかけて、日本出版会文芸課長に就任している。日本出版会とは、戦時下の出版新体制運動としての一元的出版団体の日本出版文化協会の後身である。昭和十八年に設立され、戦時下の出版物の、紙も含めた計画配給を司っていたことからすれば、その学芸課長としての位置は、出版についての裁量を任されていたと考えられる。

それに同年には本連載でお馴染みの生活社から『ふらんす手帖』を出していることも、そうした事情をうかがわせるし、戦時下の外国文学出版にあたって、河盛の尽力が大きく作用していたのではないだろうか。そればかりでなく、河盛は『フランス語盛衰記』(日経新聞社)の中で、日本出版会への勤務が辰野隆を通じてのものだと語っている。そのために、戦時下におけるフランス文学の出版も可能だったように思える。

フランス語盛衰記

そして河盛が戦後の昭和二十年十二月には新潮社に入社し、『新潮』の編集に携わっているのも、『四季』から始まり、日本出版会学芸課長へと至ったプロセスと無縁でなかったと考えられる。その『四季』の第一、二次は日本近代文学館から復刻が出ているようなので、それらをいずれ見てみたい。

ちなみに本連載でしばしば参照してきた『新潮社七十年』は河盛の手になるものであることを付記しておこう。
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