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古本夜話824 青山出版社と岸田国士『生活と文化』

 前回や本連載786の岸田国士『生活と文化』も出てきたので、これも取り上げておきたい。それは昭和十六年十二月に青山出版社から刊行されていること、また内容は先の『力としての文化』と重なり、大政翼賛会と文化の新体制に関する文章から構成されているのだが、大政翼賛会が地方に及ぼした影響、及びその配置図がチャートを含め、述べられていることによっている。
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 まず出版社のほうから明らかにすると、その住所は赤坂区青山北町に置かれ、発行者は菅原卓となっている。彼の名前は『日本近代文学大事典』に見出される。

 菅原卓 すがわらたかし 明治三六・一・一五~昭和四五・五・三(1903~1970)演出家。東京生れ。内村直也の実兄。慶大経済学部を卒業後、アメリカのコロンビア大学で演劇を専攻。昭和七年三月、岸田国士らと演劇雑誌「劇作」を創刊、以後同誌に多くの評論や翻訳を発表。戦後は文学座でソーントン=ワイルダ―の『わが町』を演出する一方、ピカデリー実験劇場運営委員長となり、ドルーテンの『山鳩の声』(昭二四)、イプセン『ヘッダ・ガブラー』(昭二五)を翻訳、製作、演出した。(後略)

 幸いなことに、その演劇雑誌『劇作』も『同事典』にほぼ一ページにわたって立項されているので、それを要約してみる。岸田に師事していた第一書房版『悲劇喜劇』の編集助手だった阪中正夫が菅原とともに主唱し、岸田のもとに集まっていた新進劇作家や演劇評論志望の生年たちを糾合し、岸田と岩田豊雄を相談役として、昭和七年に創刊され、十五年まで続いた。発行所は白水社となっているが、原稿料は支払われていない同人制による月刊演劇雑誌で、発行部数は二千部ないし二千五百部、毎日の赤字は菅原が負担したという。同人は二人の他に菅原の弟の内村直也で、田中千禾夫、辻久一、原千代海、森本薫などで、戦後の第二次『劇作』は世界文学社から出されたことを知ると、どうして『森本薫全集』が同社から刊行されていたのかを了承することになる。
f:id:OdaMitsuo:20180908225455j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20180907113747j:plain:h120(森本薫全集)

 これらのことから、次のように推測できる。菅原は『劇作』の当初、白水社を発行所としていたが、自らが赤字を負担するようになったこともあり、実質的な発行所も兼ねる立場をとらざるをえなかった。それを可能にしたのは、菅原の実家は父が創業した菅原電気で、弟もその重役だったことから、経済的なパトロンも兼ねていたことに求められるのではないだろうか。だが『劇作』が昭和十五年に休刊となったこともあり、その代わりに青山出版社として、書籍の出版を始めたように思われる。ただそうはいっても、『劇作』の経験から戯曲の出版は難しいことを承知していたので、師事する岸田の著書が選ばれたと考えられよう。

 岸田はその前年に大政翼賛会文化部長に就任したところで、その出版物助成金やまとめ買いも期待できたのかもしれないのである。本連載786の『力としての文化』の初版部数が三万部だったことは記述しておいたとおりで、ひょっとすると、内容だけでなく、それも『生活と文化』は範としていたとも想像される。

 それにその内容だが、巻末に置かれた昭和十六年七月の日付のある「地方文化の新建設」は、そこに示された「地方文化新建設に関する当面の方策」全文と「地方文化機構図」の双方を引けば、そのほぼ全貌が明らかになろう。しかしそれは紙幅が許さないので、そのコアとしての「一、地方文化に関する中央機構の確立」の4項目を挙げてみる。

 1 大政翼賛会文化部に地方文化に関する委員会を設立し、地方文化再建のための企画及び運営に当たらしめること。
  右委員会委員は、地方文化に関係ある館長及び民間各職域に於て、識見と指導力ある第一線的中堅人物を以てこれに当てること。
 2 中央各省に於る地方文化に関する行政事項の統一をはかり、新しき規模並に攻勢をもつ文化宣伝啓蒙の内閣直属主務官庁の設置を促進すること。
 3 地方文化に関する中央諸団体の連絡およびその統合を図ると共に、文化配給について計画的組織化を図ること。
 4 国土計画に基き文化の大都市集中主義の弊を打破すること。

 そうして具体的に、大政翼賛会文化部を頂点として、そこに関係諸官庁の連絡を図る地方文化委員会が置かれ、その下に産業報国会、産組中央会、壮青少年団、その他団体が管理され、大政翼賛会道府県支部を通じて、都市と町村生活共同体の指導がチャートとして提出されることになる。これらをあらためて考えてみると、大政翼賛会の活動は都市部を中心とする様々なプロバガンダにあったと思われるがちだが、実は地方のほうで大きな力をふるい、都市以上に影響をもたらしたように思えてならない。戦時中に大政翼賛会に在籍していた、後の『暮しの手帖』の花森安治、同じく『平凡』を創刊する岩堀喜之助や清水達夫たちが果たした役割も同様だったのではないだろうか。そこで彼らは戦後の雑誌のノウハウを身につけたのではないだろうか。
暮しの手帖 f:id:OdaMitsuo:20180908230301j:plain:h115

 それと同時に、昭和十六年には出版物の画一的・均一的な配給をめざす国策取次の日配が誕生しつつあったことも、大政翼賛会文化部の発足や活動とリンクしていると見なすこともできよう。いずれも岸田がいっているように、「新体制に於る文化の建設」をスローガンとしていたのである。 


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