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古本夜話826 ゴンクウル『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』

 前回ふれたように、戦後を迎えての『ゴンクウルの日記』の翻訳刊行に伴い、ゴンクウル・ルネサンスというほどではないにしても、小説の『ジェルミニイ・ラセルトゥ』と『娼婦エリザ』が様々な版元から出されるに至った。前者は同タイトルで前田晃訳、平凡社、後に『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』として大西克和訳、岩波文庫、『宿命の女』として久保伊平治訳、世界文学社、後者はやはり同タイトルで中西武夫訳、国際出版、田中栄一訳、大翠書院、『売笑婦エリザ』として桜井成雄訳、岡倉書房が相次いで刊行されている。それらはいずれも昭和二十三年から二十五年にかけてであり、近年の斎藤一郎編訳『ゴンクールの日記』の岩波文庫化は承知しているけれど、その後、フランスでのゴンクール賞の名声とは裏腹に、日本でのゴンクールのリバイバルは起きなかったように思える。

f:id:OdaMitsuo:20180908105644j:plain:h115(『ゴンクウルの日記』) ジェルミニィ・ラセルトゥウ(『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』、岩波文庫)ゴンクールの日記

 しかし幸いにして、『ゴンクウルの日記』と同様に、大西克和訳による『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』は平成五年に復刊されているので、ここで書いておきたい。この写実主義文学でも傑作とされる作品はゾラに引き継がれて自然主義へと発展し、「ルーゴン=マッカール叢書」の登場人物たちの造型にも影響を及ぼしていったし、私見によれば、『ごった煮』(拙訳、論創社)の女中たちの起源も、この作品に求められるような気がするからだ。

ごった煮

 『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』はジェルミニィという女中を描いた作品で、彼女は長きにわたって老嬢に仕えた、忠実で善良な女と見られてきた。ところが一方で、激情的にして男に対する強烈な欲求を秘め、女主人に隠れて若い男に入れあげ、金品を貢ぎ、女の子をもうける。ところがその子も里親のところで病死し、男はジェルミニィの金はもちろんのこと、女主人のものまで盗み出させ、その挙げ句に捨ててしまう。彼女は強い酒をあおり、盗みをし、街の男を追うようになり、白痴化し、施療院で悲惨な死を遂げる。これらのことを老嬢はまったく知らず、女中の死後に次々と持ちこまれた借金の支払い要求で明らかになったのである。

 このジェルミニィのモデルは、ゴンクウル兄弟の母の存命中から二十五年にわたって仕えていたローズという女中で、鋭敏な感覚を有する心理学者とでもいうべき彼らにしても、ローズの隠れたる行状、及び彼らの金や酒や食料を盗み、男に貢いでいたことにまったく気づかなかった。それゆえに彼らはその「序」で、「此の小説は真実の小説」で、「《愛欲》の臨床講義」だとし、次のように述べている。

 此の十九世紀に、普通選挙、民主主義、自由主義の時代に生を受けて、私たちが不審に堪へなかつたのは、世上《下等社会》と呼ばれてゐるものは「小説」に書かるべき権利を要求することが出来ないものであるかどうか、或る一つの社会の下の此の社会は、下層社会の人たちは、文学的禁治産者と、彼等の有し得る心と情とに対して今日まで沈黙を守つてまた作者たちの軽蔑と威嚇との下に、なほ甘んじていなければならないものであるかどうか、と云ふことであつた。私たちが不審に堪へなかつたのは、作家にとつても、また読者にとつても、此の私たちの平等の時代に於て、資格のない階級とか、余りにも下品すぎる不幸とか、余りに気高くなさすぎる恐怖の悲惨な結末とかが果してあるものかどうか、と云ふことであつた。それで私たちは、忘れられた文学と消え去つた社会とに対する此の在来の形式が、《悲劇》が慥かに亡びてしまつたかどうか、姓階もなく、法定の貴族もない国に於て、下賤な者や貧しい者の不幸が、上流のひとや富裕なひとたちの不幸と同じやうに声高く、世人の興味や、感情や、憐憫に話しかけるものであるかどうか、詰り一口に言ふならば、下の方で泣く涙と云ふものが、上の方で泣く涙のやうに泣かせることが出来るであらうかどうか、を知りたいと云ふ好奇心が起つたのであつた。

 省略を施さなかったので長い引用になってしまったが、ここにフランスの十九世紀後半おける写実主義から自然主義文学の誕生の一端が語られているし、これが一世紀半前の文言であるにしても、中流階級が解体し、下流社会が喧伝されている現在と通底する問題が提起されているように思えるからだ。それはいうまでもなく、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」が体現するものであった。

 『ゴンクウルの日記』の一八六四年五月のところには、『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』の取材のために、パリの郊外の貧民窟に出かけ、その風景と貧民たちの行状が描かれている。それは「暴力に依る弱者に対する此の卑怯な屠殺」のようであり、「夢の中を夢魔が通り過ぎる」かの如くだった。その取材はジェルミニィが出かけていくクリニャンクウルの郊外の風景へと投影されていったのだろう。

 その他にも『日記』の中には、『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』の抜き書き、及びそれへと転用されたと思われるシーンが見出され、十一月には校正が終わり、「おお! 此の小説は吾々の腹の底から正しくもれた悲痛な本だ」との言も見える。そして一八七五年一月、「吾々の『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』が昨日出版された」という記述に出会う。ここに写実文学の傑作が送り出されたことになる。


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