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古本夜話849 坂口安吾『吹雪物語』と竹村書房

 前回ふれた坂口安吾『吹雪物語』の昭和十三年の竹村書房版は、『坂口安吾』(「新潮日本文学アルバム」35)で書影を見ているだけだが、昭和二十三年に山根書店から刊行された山根書店版は入手している。これは同二十二年の新體社の再版に続く三度目の出版であり、新體社版に寄せられた「再版に際して」がそのまま収録されている。

坂口安吾  f:id:OdaMitsuo:20181130002212j:plain:h112(山根書店版)

 新體社と山根書店の関係は『吹雪物語』所収の冬樹社版『坂口安吾全集』第二巻の関井光男の詳細な解題「『吹雪物語』について」によれば、新體社版は東京都中央区銀座西六ノ五、発行者は山根信一で、東郷青児装幀のB6判であり、山根書店版は原弘装幀と異なるが、新體社版をそのまま踏襲している。ところが新體社と山根書店の住所は同じ中央区銀座西六ノ五、前者の発行者は山根信一、後者は山根謹一であるので、出版社名も発行者名も異なるけれども、それらの名前を変えただけで、同じだといっていい。おそらく戦後の混乱期の出版業界において、新體社としては続けられず、社名と発行者名を変え、重版のようなかたちで、山根書店版は出されたのではないだろうか。
坂口安吾全集

 本連載の目的のひとつは、文学者たちの初期作品を刊行した出版者や発行者との関係を浮かび上がらせることにあるのだが、それらに関して文学者たちはほとんど証言を残しておらず、出版社や発行者も近代出版史にこれもほとんど記載されていない。それゆえに、多くの場合、近代文学史と出版史はクロスしておらず、それは坂口も例外ではない。その処女作『黒谷村』に続いて、『吹雪物語』を刊行し、しかも彼の京都での書き下ろしを支えたとされる竹村書房との関係はどのようにして成立したのかは定かでないし、新體社や山根書店との関係も同様であろう。

 それはともかく、『吹雪物語』の戦後版が竹村書房版と異なるのは、先述したように、何ページに及ぶ「再版に際して」が付されていることだ。この始めとコアの部分だけを抽出してみる。

 この小説はわたしにとつては、全く悪夢のやうな小説で、これを書きだしたのは昭和十一年暮で、この年の始めに私はある婦人に絶縁の手紙を送り、私は最も愛する人と自ら意志して別れた。(中略)
 そして私がこの小説を考へたのは、ここに私の半生に区切りをつけるため、私の半生のあらゆる思想を燃焼せしめて一つの物語りを展開し、そこに私の過去を埋没させ、そしてその物語の終るところを、私の後半生の出発点にしようといふ、いわば絶望をきりすて、絶望の墓をつくり、私はそこから生れ変るつもりであつた。

 そうして書き上げられた七百枚の『吹雪物語』は矢田津世子との関係も反映され、「ただ墓の影であり、その墓は名ばかり、真実屍を土中に埋めてゐない。空虚な、カラの墓であつた」と安吾は戦後になって告白している。それも作用してか、『吹雪物語』は失敗した作品、奥野健男によって読者を拒否する「安吾文学を象徴する極北の小説」、「類稀なる悪作」「読み了えることさえ困難な小説」(『同全集』第二巻解説)とされてきた。それでもようやく近年になって、七北数人『評伝坂口安吾』(集英社)が「世界文学の前衛」たらんとした作品として、その虚無的物語の世界の時間構造を示し、「さまざまな実験が凝らされた刺激的快作」と断じるに至っている。
評伝坂口安吾

 だがここではこれ以上『吹雪物語』には深く立ち入らず、この出版が竹村書房に及ぼした結果についてふれてみたい。これは『定本坂口安吾全集』第二巻の「月報」3における岡田金蔵の「『吹雪物語』のこと」で知り、竹村書房に関する疑問のひとつが解けたことによっている。岡田は講談社の編集者、坂口の囲碁仲間、同じ菊富士ホテルの住人で、安吾が「かたみにくれた」『吹雪物語』の原稿の所持者である。岡田によれば、安吾は『吹雪物語』刊行後、経済危機に襲われていた。その印税は前借りというかたちで、京都での生活費に当てられ、出版されてももはや取り分はなく、それに売れなかったことも加わり、次のような事態が生じたとされる。

 何かの力になる筈だった竹村書房の経営が思わしくなくなり、尾崎士郎氏の「人生劇場」のゾッキ本問題を起こしてしまった。出版屋としてはもうおしまいである。尾崎士郎氏はカンカンになって告訴するといきまき出した。竹村書房の主人は顧問である坂口君が、尾崎氏と親交のあることに目をつけ、調停に乗り出して貰った。事件は相当難行(ママ)したようであったが、どうやら解決して、謝礼として籐のステッキを贈られた。これが一時坂口安吾のトレードマークになった例のステッキである(後略)。

 私は前回記述しておいたように、拙稿「尾崎士郎と竹村書房」(『古本探究Ⅱ』所収)で、『人生劇場』がベストセラーになったにもかかわらず、新潮社に版権が移譲されたことに関して、不可解で「おそらく切実な金銭事情が絡んでいるのであろう」と記しておいた。それは「ゾッキ本」事情が絡んでいたとわかるし、これを抜きにして、新潮社への版権移譲も語れないと了解する。このような文学と出版のドラマは至るところで起きていたにちがいない。

古本探究2


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