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古本夜話859 高梨茂と中央公論社『荷風全集』

 もう一編『断腸亭日乗』に関して続けてみる。昭和二十二年で扶桑書房主人についての言及は消え、昭和二十三年六月からは中央公論社の高梨氏の名前が頻出するようになる。そしてそれは昭和三十年以降は少なくなるにしても、荷風の死の三十四年まで絶えることなく続いている。そのことを考えると、荷風の晩年において、高梨は最も親炙した編集者と見なすこともできよう。

 だがまずはその前史にふれなければならない。中央公論社は戦前に『荷風全集』刊行を約束していたこともあり、昭和二十年十月に社長の嶋中雄作は荷風に書信している。それを受け、荷風は「遠からず中央公論社を再興し余が全集梓行の準備をなすべしと言へり」と『断腸亭日乗』に記し、その準備に入っている。十一月になると、そのために中央公論社小瀧氏が訪れてくるようになり、二十一年三月には荷風に「顧問給料金五百円」が贈られたりして、全集計画は進行していったようだ。二十二年四月には「全集出版契約文案を中央公論社小瀧氏に郵送」し、七月には「全集出版契約書に調印す」とある。そして二十三年四月に『荷風全集』の刊行が始まり、「小瀧氏全集五巻持参。駅前闇市の天麩羅屋に一酌す」とは、第一回配本を手にしての祝盃ということになろう。

 ところが五月に入って、荷風は「社内に紛擾あり小瀧氏已むことを得ず退社」を聞かされ、「丸ビルに島中氏を訪ひ小瀧氏退社後余が全集編纂のことを議して」いる。そうして六月に高梨氏の名前が出てくるので、とりあえず小瀧の仕事を高梨が引き継ぐことになったと推測できる。『中央公論社の八十年』所収の「年表・中央公論社の八十年」を繰ってみると、昭和二十三年のところに、ちょうど入れ代わるように、高梨茂の入社と小瀧穆の退社が記載されている。
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 私が所持する『荷風全集』は第十一十八巻の二冊だけだが、前者は二十三年十一月刊行なので、高梨によって荷風の手に届けられたのであろう。しかも『中央公論社の八十年』の本文にも、「『荷風全集』は、昭和二十八年四月、荷風をしくじらなかったただ一人の編集者高梨茂の手によって無事完結した」とあり、そこに掲載された荷風の二十七年の文化勲章祝賀宴の写真にも姿を並べている。その後の『断腸亭日乗』から見ても、高梨が「荷風をしくじらなかったただ一人の編集者」であり続けたことを語っていよう。

 高梨は『荷風全集』を完結させたことで、中央公論社における編集者としての地位を不動にし、中公文庫や各種の全集を仕切り、役員にまでなっている。それらの事柄からすれば、高梨は不世出の編集者として周囲からも認められていたはずなのに、寺田博編『時代を創った編集者101』(新書館)や『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ)などにも、その名前は見当らない。
時代を創った編集者101 出版文化人物事典

 それらの事情は多々あるはずで、高梨のパーソナリティだけでなく、中央公論社の内部事情と深く関係していると考えられる。それでも実質的に中央公論社が消滅したことによって、かつての社員たちが高梨と中央公論社に関して語り始め、粕谷一希の『中央公論社と私』(文藝春秋、平成十一年)は貴重な証言といえるだろう。粕谷は自らの中央公論社時代と高梨について、次のように書いている。
中央公論社と私

  私が在社した昭和三十五年(一九五五)から昭和五十三年(一九七八)までは、嶋中鵬二氏の時代であったが、同時に嶋中・高梨時代が形成されていった時代であったといえるかもしれない。
 (中略)高梨さんの趣味は古本の世界であり、江戸文学を中心とした国文学の世界であった。これらはのちに、森銑三著作集、三田村鳶魚全集に始まり、水谷不倒、山口剛、潁原退蔵などの著作集に結実した。また中公新書につづいて創設された中公文庫の初期には、色濃く高梨茂氏の好みが投影されていたように思う。
  遡って考えると、戦後、中央公論社から発刊された昭和二十三年版の永井荷風全集を担当したのは高梨氏であり、嶋中鵬二氏が最初から直轄部門として責任を負わされた荷風・谷崎に関する実務は高梨氏が大むね担当していた。

 また粕谷は中央公論社の絶頂期を形成する『世界の歴史』や『世界の名著』も含めた全集体制時代は、宮脇俊三の参加によって成功への道を拓くことになったとも付け加えている。そうした全集体制時代の中心人物の高梨が最も早く取締役となり、嶋中の絶対的信頼を得て、専務へと昇進していくのだが、現在の言葉でいえば、パワハラ気質が露呈していったようで、これについても粕谷はふれている。「本造りの名人として他の追随を許さない職人肌の人であったが、ひとの上に立つ管理者としては狭量」で、「専務となり、(中略)経営者になっていくにつれて周囲の人々への不寛容が目立った」。それは他社の人間に対しても同様だったようだ。

 そのために同世代の『婦人公論』『中央公論』の編集長たち、部下の書籍局部長たち、宮脇俊三までが辞めてしまい、それが中央公論社の衰退の一員だったと粕谷は見ている。それに加え、嶋中と高梨の関係はよくわからず、高梨が野田醤油一族であることから、借金があるのではないかとの噂も流れていたという。そういえば、『断腸亭日乗』に「高梨氏野田の醤油一升恵贈」とあったことを思い出す。「若いころは周囲の人々にもやさしい振る舞いが多く、自らも謙虚であった」高梨が、パワハラ人間へと変身してしまったのは、単に社内で出世したことだけではないようにも思われる。彼が手がけた国文学関係の全集編集がもたらした毒のようなものがあるように感じられてならない。

 なお粕谷の同期入社の近藤信行が「文芸誌『海』がめざしたもの」(『エディターシップ』3 所収、日本編集者学会)において、やはり高梨に関するエピソードを語っていることを付記しておこう。
エディターシップ


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