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古本夜話860 占領下の『婦人文庫』

 これも鎌倉文庫が発行していた『婦人文庫』が一冊出てきたので、やはりここで書いておこう。それは昭和二十一年十一月刊行の第七号である。
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 木村徳三は『文芸編集者その跫音』において、『人間』創刊後の鎌倉文庫の昭和二十一年状況と雑誌創刊に関して、次のように書いている。鎌倉文庫は丸ビルから日本橋の白木屋デパートの二階、木村のいうところの「白木屋時代」に移っていた。
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 昭和二十一年のはじめ大森直彦氏が編集局長格で入社し、続いて若槻繁氏が入社した。大森さんは戦前の『改造』編集長、岩槻君も『改造』『大陸』の編集者、ともにいわゆる横浜事件に巻きこまれて辛酸をなめた、私の先輩同僚である。
 五月に女性向けの雑誌『婦人文庫』が創刊されて若槻君が編集長となり、十月には一般社会人向けの雑誌が出た。またフランス文学者の小松清氏の斡旋で、ヨーロッパ文学の紹介雑誌『ヨーロッパ』が発刊された。

 ここで少しだけ横浜事件にふれておけば、これは神奈川県特高課が『中央公論』や『改造』などの編集方針が左翼的で、雑誌編集者の組織を通じて共産主義運動を展開するものと見て、中央公論社、改造社、日本評論社、岩波書店の編集者たちなど三十余名が逮捕され、拷問され、四名の獄死者を出し、中央公論社と改造社は内閣情報局による解散命令を受けた。元『中央公論』編集長の黒田秀俊『血ぬられた言論』(学風書院)から横浜事件の改造社関係者を挙げれば、その大森、若槻の他に、水島治男、青山鉞治、小林英三郎だった。
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 そうした横浜事件で「辛酸をなめた」二人が戦後に釈放され、鎌倉文庫に迎えられたことになり、若槻のほうは『婦人文庫』の創刊編集長に就任する。確かに『婦人文庫』の奥付は編輯人として、若槻の名前が記載されているが、彼以外の編輯者として、北條誠、耕よし、松田信子、橋爪常子、高山豊子が並記されている。このうちの北條は新進作家だったが、鎌倉文庫に入社していたと木村がふれているので、事情がわかるけれど、後の四人の女性編輯者はどのような人たちなのだろうか。『女性改造』関係者と考えれば、納得がいくような気もするけれど、こちらも昭和二十一年六月に先の黒田を編輯長として復刊されているので、それは考え難い。松田の信子は本誌記者として、「浮浪児と生活を共にして」という「浮浪記」を寄せていることからすると、戦前はプロレタリア文学の近傍にいたのかもしれないし、「編集日記」にはクリスチャンともある。また同様に高山豊子は「婦人警察を訪ねて」、橋爪常子は「アメリカの職業婦人」の翻訳を寄せ、彼女たちも単なる女性編輯者ではないと思われる。

 それらはともかく、このA5判、一二八ページには三枝博音の巻頭論考「女性とその『解放』」を始めとして、高見順「女性と恋愛」、吉屋信子「女性と自我」、林芙美子「女性と教養」、深尾須磨子たち四人による「女性解放讃」などが続き、実用、文化記事、詩や短歌も織りこまれている。そして折口信夫「女流短歌史」、室生犀星の長いエッセイ「ぱちんこ」に加え、巻末には船橋聖一「くろ髪記」、吉屋信子「花鳥」、北原武夫「婚約者」という三本の小説もある。さらに表紙は中原淳一の手になるもので、カットや挿絵なども猪熊弦一郎や岩田専太郎といった十五人ほどが担当していて、粗末な用紙は時代を感じさせるけれど、コンテンツは敗戦からほぼ一年後の世相と女性状況を浮かび上がらせているようでもある。
 
 とりわけ象徴的なのはグラビアで、それは松本政和の「アメリカ生活を東京に運んで」と題する「進駐軍家庭訪問記」と見なせよう。それらの写真に添えられた一文は次のように始まっている。「ヘイズ中佐ご夫妻は、新装なったお茶の水文化アパートにお住ひです。所収の一日その日本に於ける新居を訪問させていいたゞきました。金髪の優雅そのものゝやうな夫人は、美しいものごしでさあどうぞと各部屋をご案内して下さいます」と。そして広いリヴィングルーム、その奥の一方がキッチン、もう一方がベッドルーム、その奥がバスルームと紹介され、折から来ていたアーサー夫人とともにソファの上で談笑する「お美しいお二人」の姿も映し出されている。さらに「沢山のお洋服」がつまったクローズ・クロセット、美しい靴入れに入ったカラフルな靴の数々、食器棚なども公開され、それからパーティにおけるロングガウンの仕着姿、自動車でビューティハウスに出かける姿もキャメラは捉えている。まさにオキュパイド・ジャパンにおける「進駐軍家庭」の生活が浮かび上がるのだ。

 このような光景を目にすると、昭和二十九年に発表された小島信夫の『アメリカン・スクール』(新潮文庫)の一シーンを想起してしまう。このアメリカン・スクールの住宅地に住む人々は「天国の住人のように思われる」のだ。まして『婦人文庫』のグラビアは、昭和二十九年どころではない、まだ敗戦から一年後のことであり、それ以上に「天国」のように映ったに違いない。そしてこのような「アメリカ生活を東京に運んで」と題するグラビアのコンセプトは、高度成長期を通じて雑誌の定番となったこと、そして消費社会を出現させ、昭和五十年代に日本もまたアメリカ的郊外消費社会の風景に包囲されてしまったことを実感するのである。

アメリカン・スクール

 なお『婦人文庫』は昭和二十五年の鎌倉文庫の解体とともに廃刊になったようで、若槻はその「にんじんくらぶ」を立ち上げたと伝えられている。


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