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古本夜話869 阿部知二『火の島』とボゴール植物園

 本連載866で、大木惇夫と一緒にジャワに向かい、同様に船を撃沈され、海を漂流した後、救助された人々の中に、阿部知二もいたことを既述しておいた。

 帰国してから大木は「愛国詩」を盛んに書くようになるのだが、阿部のほうは昭和十九年に創元社から「ジャワ・バリ島の記」というサブタイトルを付した『火の島』を刊行している。その「回想―序にかえて」で、阿部は「帰ってからもう一年になっている」と書き出している。英文学者でもあった阿部は当然のことながら、ブロンテ姉妹の『ジェイン・エア』や『嵐が丘』の主人公のロチェスターやヒースクリフが外国を遍歴し、故郷へと戻ってきた男たちだったことも意識していたにちがいない。阿部もまたジャワ・バリ島から帰ってきた男、しかも「大東亜戦がはじまるとともに軍に属するもの」として行き、「戦いの眼を通して南の土地を観」て、戻ってきたのである。
f:id:OdaMitsuo:20190116210720j:plain:h115(創元社) 

 そして続けて輸送船の甲板の上のことが語られ、バンタム湾での撃沈、「斜面をなしていた舷側を、中甲板から浪のなかに飛びこんだのは、詩人のO君と相前後してであった」ことに及んでいく。「O君」が大木であることはいうまでもないだろう。それから救助、ジャワ上陸とバタビヤ=ジャカルタ入り、全蘭印の無条件降伏などが言及され、あらためてジャワ島とバリ島での見聞が記されていく。

 阿部たちが属する宣伝班の仕事は民衆の指導、新聞、放送、日本語教育などで、阿部はジャカルタの本を調べることになり、本屋、貸本屋、図書館、個人や役所の蔵書から、日本に有用なものとそうではないものの検閲に携わった。それらはオランダ語が主だが、英語のベストセラーや探偵小説、大衆雑誌も氾濫し、ドイツ語やフランス語は少なかった。彼はそれらの中から蘭英会話本を手にし、その対話の大部分が商人のための言葉であり、次のように述懐する。「それが彼等の『言(こと)たま』なのだ。すべてが取引だ。(中略)戦争の歴史も取引の歴史にすぎなかったのだ。世界を一つの取引市場としようとした歴史、そこからは精神も文化も逃げ出してしまうだろう」と。この阿部の言葉は現在の「世界を一つの取引市場」としてしまったグローバリゼーション化にも当てはまるものであろう。

 『火の島』の口絵写真として、ジャワのボロブドゥール遺跡やボゴール植物園の風景が収録されている。前者は本連載357でもふれているが、後者は初めて目にするもので、その大蓮の池やカナリア樹並木は植物園の印象を逸脱して映る。それらのキャプションとして、「写真は全て昭和17年に著者がジャワより持ち帰った書物による」とあるので、これらは検閲に際し、資料として入手した書物を意味していよう。

 そのことはひとまずおくとして、阿部は「夢と科学」と題する章でボゴール植物園を取り上げている。それは高台にある百エーカーの幻のようにして、大きな科学の営みが続けられていたトポスなのである。

 「中央局」は天然記念物保護、写真作成、図書管理、出版指導らのことをする。天然記念物保護は全インドネシヤに百ヶ所以上あり、その面積は計四百万エーカーに近い。その下に、約百万種の腊葉(さくよう)と他に多くのアルコール漬標本を有する「腊葉館」、植物化学の「トロープ研究室」、バタビヤ魚類研究所、チボダス高地植物園及び研究室等がある。そこで、あるいは寄生虫、害虫の研究、あるいは有用植物の栄養研究、あるいは土壌水利の研究が為されていた。出版としては南洋植物誌、南洋動物誌が数年の予定を以て進行の序につこうとしていた。そのほかさらに東部に大植物園を作る計画があった。

 そして続けて阿部は「これらの科学機関」とその研究とを続け行かしめよ、との尊い御言葉があったかに漏れ拝している」とも書いている。これは自然科学者としての昭和天皇の言ということになるし、「ボゴールは、科学を究めようとする人々やまた夢を愛する人々を、さらに多く日本の国から呼び寄せなければならない」のだ。

 実際に阿部がそう思いながらボゴール植物園を散策した昭和十七年に、中井猛之進が陸軍司政長官としてジャワに赴任し、その植物園長に就任するのである。中井は植物分類学者で、本連載173の新光社の『日本地理風俗大系』の監修者の一人であり、東京帝大教授や小石川植物園長も務め、また大東亜戦争下において、陸軍政務次官の土岐章とともに大東亜博物館計画を構想していたことから、ボゴール植物園長として召喚されたと考えられる。またこれもいうまでもないかもしれないが、あの『虚無への供物』(講談社文庫)の中井英夫が呪詛していた父に他ならない。

 なお『火の島』の引用は平成四年に刊行された中公文庫版によっていることを付記しておく。

火の島 (中公文庫)虚無への供物


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