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古本夜話872 高橋鐵『世界神秘郷』、『南方変幻郷』、「蕃女の涙」

 大東亜戦争下において、多くの人々が南方へと向かっていた。それは本連載9の戦後の性科学者として著名な高橋鐵も例外ではなかった。しかもそれは前回の太平洋協会の岩倉具栄の序を添えてであった。

 だがそれを知ったのは近年のことで、高橋の『世界神秘郷』(日下三蔵編『ミステリ珍本全集』5、戎光祥出版、平成二十六年)が刊行されたことによっている。同書には『世界神秘郷』(霞ヶ関書房、昭和十六年、久保書店、同二十八年)と『南方夢幻郷』(東栄社、同十七年)という二冊の短編集、及び単行本未収録七編が収録されている。『世界神秘郷』にしても『南方夢幻郷』にしても、その存在は知っていたけれど、これまで実物にも原本にも出会うことなく、今回の戎光祥出版『世界神秘郷』が刊行されるまで未読のままであった。
世界神秘郷

 それもそのはずで、日下にしても『世界神秘郷』のほうは戦後に久保書店から再刊されていることから、読むだけならば、それほど苦労はなかったが、『南方夢幻郷』はほとんど幻の本だと証言している。彼もまた現物を見ておらず、所有もしていないので、同書のテキストは国会図書館所蔵本を原本としている、それで私も前者はともかく、後者は古本屋や古書目録で出会わなかったことに納得した次第だ。それゆえにここでは『南方夢幻郷』にふれてみたい。なお戦後の高橋と久保書店の関係については、飯田豊一『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ』(「出版人に聞く」12)に詳しい。
『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ』

 先の岩倉は序にあたる「『南方夢幻郷』に寄す」において、昭和十六年の南洋視察体験を述べ、「自分の南洋への憧憬(あこがれ)」が満たされたことを語り、次のように続けている。

 近年、日本人の南方への関心は高まる一方であるが、真に南の国を知るためには、情熱的な愛を持つと同時に、科学的にも、南洋を研究する必要があると思う。
 かくして始めて、南洋を理解し、真に大東亜建設の大業を成就することができるのである。
 殊に、大東亜戦争勃発以来、皇軍は、陸に、海に、将、空に、大南洋を席捲しつつある時日本人の南への夢は、今や現実化されたのである。
 日本の東亜共栄圏建設は、既に緒に付かんとしている。この時、南方への夢と科学を表現した、高橋鐵君の著書が上梓されることはまことに時宜を得たものと思い、世間一般に寄与する所大なるを信じて疑わないのである。

 高橋もその「新日本圏を眼前にして」とある「まえがき」において、「南方の夢幻に煌く風土美と、季節風(モンスーン)の如く吹捲る情熱と伝奇」に基づく中篇小説をここに集めたとしている。ただその五編の中でも、「南方の夢幻」にふさわしいのは「蕃女の涙石(タンギワイ) ニュージーランド篇」である。他にはフロイト的なトラウマ物語といっていいので、ここではそれを取り上げたい。

 この作品は数年前に東京で開かれた「海国日本大博覧会」におけるニュージーランドのマオリ土人たちの唄と踊りの紹介から始まり、その中にいたタウポという「酋長の娘」で、「目鼻立ちがハッキリした、ちょうど熱帯の濃艶な花のように芳しい美人」のことが語られる。そこで「私」は旧友の水島に出会う。彼はマオリ土人の臨時の興行師だった。「この国に来て踊るのが嬉しくてたまらぬように、寧ろ、淫らにみえるほど大きな瞳を輝かせて踊っていた」タウポに、土俗学研究者兼小説家として紹介される。彼女は自分の「生命」を預けた「ハカ」という日本人を探すために日本へやってきたのであり、英語も達者で、「ハカ」も土俗学に通じていたと話し、「私」に敬意を表する「マオリ族の有名な鼻挨拶《ホンギ》」をする。それは彼女の鼻と「私」の鼻を合わせるものだった。

 そのことから「私」は世田ヶ谷のG脳病院にいる癲癇性痴呆の患者の誇田哲夫を思い出した。彼は文化人類学者で、世界一周の旅に出て、三年後に帰国したが、突然ホテルで何の関係もない英国人二人に重傷を負わせてしまった。精神鑑定の結果、癲癇発作の朦朧状態での犯行だと判明し、入院となったのだが、発作が起きる前には必ず壁に寄って鼻をこすり、奇怪な英語を口走るという。そこで「私」は彼が発作から覚醒した直後を見計い、何が見えたのか聞いてみると、「氷の地獄から火の地獄ですよ。・・・二ア人(ふたり)で見た坩堝ですよ」との呟きが戻ってきた。それに彼の頭頂部には生々しい傷跡があり、そのために外傷性癲癇を誘発したにちがいなかった。この袴田こそはタウポの探す日本人の「ハカ」に相違なかった。

 また「私」はタウポから「いかなる怪奇小説家だって妄想し得ないほど面妖な、南海秘宝の行方にまつわる」話を聞いた。ニュージーランドは火と氷の島で、北は火山、南は氷河の島だった。マオリ族の住むこの島は十七世紀に白人によって発見され、十九世紀半ばには英領となっていた。その間にはマオリ族と英国人との民族闘争があり、それでいてタウポにも英国人の血がまじり、「血まで征服されていた」。しかし彼女は「征服者に対して、熾烈な憎しみをもっていた。彼女の肉体の中で、血と血が争っていたのだ」。

 そのために、父が英国商人に彼女を献じようとした時、「マオリの保塁(ペリ)」として、自分をつかまえたマオリ青年の花嫁になるという、カヌーによる「花嫁狩」に身を投じる。それに対し、見物の異国人が「野蛮の風習(サベエーシ・゙サーヴァイヴァル)」だという。その言葉にタンポは「文明の結婚だった同じようなもの」と言い通し、この日本人の若い学者と一緒に、北島の「ロトマハナの大地獄」に赴く。そこは火山の巣で、二人は死への願望を秘めた地獄巡りのように噴泉口をたどるが、爆発が起き、彼は火山岩の破片で、頭蓋を骨折してしまう。タウポは死に瀕している「ハカ」の屍に自分の命を封じこめようとして、胸にかけていた翡翠の「涙石」をその傷口に押し入れ、縫ってしまったのである。「涙石」は白人とマオリの勇士の闘いが彫刻してあり、ニュージーランドの大峡谷の絶壁中から見出され、マオリ族の祖先がそこにたどり着き、妻を思いながら悶死した涙の化石とも伝えられていたものだ。

 そうして「ハカ」は日本へと還され、タウポは彼を探すために日本へとやってきたのである。その半月後、袴田の涙石の除去手術が行われたが、それを知らずしてタウポはマオリ族の祖先がいたトルツク島へ移住する決意を話し、日本を去っていった。だが回復した袴田は正常に戻り、タウポの話を聞き、「僕も移住しよう。そして僕の土俗学を完成させましょう」と語る。その三年後に『南洋土俗考』が完成し、「私」の「マオリの蕃女は、彼等の住む氷河のモンミルフォード峡谷から見出される涙石を、生命の如く愛すという」に始まる「序文」で、この物語は閉じられている。

 この「蕃女の涙石」を読みながら想起されたのは、アンコールワットをめぐるフランス人たちの東洋幻想であり、これは日本人によって変奏された南洋幻想のようにも思えてくる。


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